初級翻訳・鉄塔の怪人 第22話

江戸川 乱歩

小林君はガッカリして、運転席に座り込んだまま、しばらくは体を動かす気にもなれませんでした。

山小屋の主

それから小林君は自動車を降りて、そこにぼんやりと立ち尽くしたままあたりを眺めていましたが、ふと気がつくと、遠くの方にモヤモヤと動いているものがあるのです。
おやっと思ってよく見ますと、それは白いひとすじの煙でした。
向こうの森の中から煙が立ち上っているのです。
煙が出ているからには、あの辺に人が住んでいるのかもしれない。
そう考えると小林君はにわかに元気づいて、その方へ歩きはじめました。
やっぱり道もない森の中を、クマザサをかき分けて歩くのです。
煙の上がっているところはすぐそばのように見えていたのに、森の中へ入っていくと方角がわからなくなって、なかなかその場所が見つかりませんでしたが、ずいぶん歩き回った末、やっと小さな山小屋を見つけました。
それは丸太を組んで作った七、八平方メートルの掘っ立て小屋ですが、近づいて覗いてみると中に人がいる様子なので、入り口に立って声をかけてみました。
すると「オー」と応えて、小屋の主人が出てきました。
顔じゅうひげに埋もれた、恐ろしげな男です。
彼は小林君の乞食姿をジロジロ眺めていましたが、不思議そうに尋ねます。
「おめえのような子どもが、いま時分、どうしてこんな山奥へやってきただ?」
「道に迷ったのです。おじさん、僕を泊めてください。疲れてしまって、お腹がペコペコで、もう歩けません」
小林君は哀れっぽく頼み込みました。
「ふーん、道に迷ったといって、こんな人も通らぬ山奥へ迷い込んでくるなんて、おめえ、よっぽどどうかしているぞ。だがまあいい、こっちへ入るがいい。飯くらい食わせてやるだ」
怖い顔に似合わぬ、親切な男でした。
小林君は例の大袋を持ったまま小屋の中に入って、囲炉裏のそばに腰を下ろしました。
やがて男は、囲炉裏にかけてある鍋の中から、雑炊のようなものを茶碗によそって小林君に食べさせてくれました。
小林君はそれをすすりながら、尋ねてみました。
「おじさんは、こんなところで何をしているの?」
「おれか、おらあ猟師だよ。この山にゃいろんな鳥や獣がいるからな。それをとって、ふもとの村へ売りにいくだ。それがおれの商売さ。アハハハ……」
と、大きな口を開けて笑いました。顔じゅうひげだらけで、真っ黒ですから、開いた口の中が、おそろしく赤いように見えました。

「ぼく、道に迷ってね、このへんの山の中を歩きまわったんだよ。そうすると、この向こうの方に大きな鉄のお城があったよ。おじさん知ってる?」

「知ってるとも。」

「あれ、だれのお城なの? だれが住んでいるの?」

「ばけものが住んでいるさ。」

「えっ、ばけものだって?」

「カブトムシのばけものだ。この山の中に、イノシシほどもあるカブトムシのばけものが、ウジャウジャ住んでるだ。ふもとの村でも、それを知ってるから、だれもこの山へは登らねえ。おれたちの仲間の猟師や木こりも、みんな逃げだしてしまった。おれは強情っ張りだからな、逃げねえ。いまじゃ、この山の中に住んでいるのは、おれひとりになっちまった。ワハハハ……。」

男はまた、大きな真っ赤な口を開いて、笑いとばすのでした。

「おじさん、そのカブトムシに、出会ったことあるの?」

「なんどもあるよ。だが、おらあ、カブトムシのばけものだけは撃たねえ。たたりがおっかねえからな。カブトムシがあらわれたら、こっちで逃げだすのよ。」

「そのカブトムシが、あの鉄の城に住んでるの?」

「そうだ。城の中には、カブトムシの王さまがいるだ。ほかのカブトムシは、みんなその王さまの家来だっていうことだ。」

「鉄の門がピッタリ閉まっているね。あの門が開くことがあるの?」

「おらあ、開いているのを見たことがねえ。いつでもピッタリ閉まってるんだ。おれは、いっぺん、おっかねえ音を聞いたことがあるぞ。城の中が見たいと思ってね、あの鉄の塀のまわりをグルグルまわってみたが、どこにも隙間がねえ。それで、おら、鉄の門に耳を押しつけて、中の音でも聞いてやろうと思っただ。すると、なあ、小僧、おっかねえ音が聞こえただ。何百というカブトムシが這いまわってる音だ。ゴジョ、ゴジョ、ゴジョ、ゴジョ……何千人もの人が内緒話をしているような、いやあな音だった。おら、ゾーッとして、いちもくさんに逃げだしただ。それからというもの、いくら命知らずのおらでも、気味が悪くて、あの城には近づく気がしねえ。遠くからチラッとあの鉄の塔のてっぺんが見えても、おら、おじけをふるって逃げだすだよ。」

山小屋の主の大男は、目を異様に光らせてあたりを見まわしながら、さも怖そうにいうのでした。

ハトと縄ばしご

それから小林君は、山男のような猟師から、いろいろのことを聞きだしました。そして、ここが木曽山脈に属する、あの高山の山つづきであること、東京からここへ来るのにはどういう道を通るかということなどを確かめました。

その夜八時ごろ、小林君は山男が眠ってしまったのを見すまして、例の黒い大きな袋をさげて、そっと山小屋をぬけだし、うらの空き地に出ました。そして、袋の中から茶つぼを大きくしたようなブリキ缶を取りだし、そのふたを開きました。すると、中からクークーという妙な声が聞こえます。小林君は、

「よし、よし、さぞ窮屈だったろうね。だが、いよいよおまえの働くときがきたんだよ。しっかりやっておくれ。」

といいながら、缶の中に手を入れて一羽のハトを引きだし、自分のポケットに入れていた何か小さなものを取りだして、それをハトの足にくくりつけました。

「さあ、しっかり飛ぶんだよ。そら……。」

手を離しますと、ハトはしばらく考えている様子でしたが、やがて大きな羽を広げてパッと飛びたちました。そして、見るまに森の高い木の上に姿を消してしまいました。真っ暗な夜中のことですから、ハトの行く先を見定めることはできません。ただ、その羽音で無事に大空へ舞いあがったことを察するばかりです。

「これでよしと。……さあ、いよいよ大冒険だぞ。」

小林君は力づよくひとりごとをいって、身じたくに取りかかるのでした。例の大きな袋の中から、黒いシャツ、黒いズボン下、黒いずきん、黒い手袋、黒い地下足袋を取りだし、今まで着ていたこじきのボロ服をぬいで、それと着がえ、頭から足の先までピッタリ身についた黒ずくめの姿とかわりました。黒ずきんは顔ぜんたいを包むようになっていて、目のところに二つの細い穴があいているばかりです。それから小林君は袋の中から、黒ビロードの幅の広いバンドのようなものを取りだし、それをしっかりと腰にまきつけました。このバンドの内がわにはたくさんのサックがついていて、探偵七つ道具が入っているのです。脱ぎ捨てたこじきの服は、小さくたたんで袋に入れ、そこにあった木の枝にかけておきました。さあ、いよいよ大冒険の第一歩を踏み出すときです。
目指す場所は、いうまでもなく怪人が住むというあの鉄の城。
小林君は腰のベルトから小さな懐中電灯を取り出し、時々パッとあたりを照らしながら進みます。

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