昨日まで、この車両には大浦さんという女性車掌が乗務していて、例えば先ほどのような曲がり角に来たときは、敏捷な動きで手を突き出しながら「左オーライ!」と合図を送っていたのです。
自分の車を捨て、自分の名前が書かれたそのニッケル色の光る箱を捨て、彼女は今、仲間たちと一緒に合宿所へ籠城しています。
紺のスカートを勢いよく広げて車座になり、熱心に報告を聞いたり、歌を歌ったり、あるいは破れた服を縫ったりしている女性車掌たちの様子が、私にはまざまざと目に浮かびました。
今回の整理案では、バスの女性車掌は月収四十八円のところを、三十八円に減らされることになっているのです。
最近では、バスの車掌も一昔前のように「赤ん坊が生まれたから」といって辞めていく人は少なくなってきました。
堂々と子供を連れて職場に踏みとどまるようになってきたのです。
××終点の折り返し線の安全地帯に立っていたら、すぐ後ろで、
「ストライキを見に来たよ」
と太い男の声がしました。
振り返ってみると、銀モールの太い紐をかけた潰し島田の髪に、白博多の帯を締めた浴衣姿の芸者がいて、男はその芸者屋の主人のような風体でした。
絞りの筒袖に、縮緬の兵児帯を尻の先にぐるぐると巻きつけています。
「ストライキをやってるっていうから……電車、動いてるじゃないか」
その芸者は黙って、安全地帯の上から珍しそうに通っていくバスの中をのぞき込み、「お父さん、何とかと……」とつぶやいています。
「車庫へ行ってみよう」
やがて五十歳くらいの男はそう言って歩き出しましたが、芸者はそれについて二、三歩歩いたきりで、安全地帯からは離れず、しきりに四辺を見回しています。
終点の周りには、何ということもなく街の様子を見物に出ている、子供連れの女や男たちが、安全地帯ではなく、洋服屋の既製品がぶら下がっているあたりに佇んで、こちらをじっと見ています。
六時を少し回った時刻で、その場末の終点の光景はどこか特別でした。
市内から終点に向かってくる電車はどれも満員で、次々と降りる群衆が、すぐ脇の省線駅や歩道の各方面へと散らばっていきます。しかし、その電車が終点からベルを合図に市内に向けて出発するときには、どの車両にも、ちらほらとしか乗客が乗っていません。
一台、ポールの向きを変えるごとに、安全地帯の上をコツ、コツと歩いている男がいます。赤ら顔に新しいカンカン帽をかぶり、縞ズボンに白い襟がついた黒いチョッキ、黒い上衣という出で立ちの、ずんぐりした四十歳くらいの男です。
「××橋行きでございます。××橋行きの方はお乗りください」
または、
「どこだい?」
と、横柄な親しさで背広姿の急造運転手に声をかけ、
「×橋行きか」
と声の調子を改めて、
「×橋行きでございます。――××方面の方は、お乗りください」
と、一言一言をはっきりと叫んで、またコツ、コツと安全地帯をこちらへやってきます。
私がここへ来たばかりのとき、その妙に際立った服装の、私服警官めいた男は、白粉が焼けたような年増女と、声高にこう喋っていました。
「あんまり見ていられねえから、手伝ってやるのさ」「あちこちから役人を引っ張り出してきているから、連中は何も分かっちゃいないんだ」
そう言って、その男は隣にいる私に聞こえるように言いました。
女もつられてちらりと私の方を見ましたが、私に対しても、男の話に対しても大した興味はなさそうな目つきで、
「大変だねえ、休みなしでさ」
と、口先だけでしんみりと返事をしました。
女はいつの間にかいなくなっていました。
赤ら顔でずんぐりした男は、それでも電車が来ると、
「えー、なんだ? 入庫、君、入庫してくれ」
と指示を飛ばしています。
「入庫だってさ」
「入っちゃっていいんですか?」
開襟シャツを着た若い背広姿の車掌は、何だか嬉しそうにしています。
「ポールを直して」
ずんぐり男が指図します。
車内に残った一人が方向幕を巻き直そうとのび上がると、
「方向幕はいいから、方向板だけ外してください」
その電車は、ポールを直した車掌を置き去りにしたまま動き出そうとしました。
背広車掌があわてて一二歩走りながら、
「ちょっと! だめだよ」
「おいおい、車掌を忘れて行っちゃ困るよ」
そう言って、男はハハハハとカンカン帽を仰のけて笑いました。
しかし、後に続いて笑う者は誰もいません。
やがて×橋行きの電車に私が乗り込むと、続いて大きな風呂敷包みを腕にひっかけた男がいそいそと乗ってきました。
「×○下まで」
男が五銭出して言うと、いかにもスポーツ好きらしい顔つきをした急ごしらえの車掌が、
「乗り継ぎ券は出さないんです」
と答えました。
「どうして」
もう一人の車掌が応援にやってきて、
「だから五銭なんです」
と、答えになっていないような答えを返しました。
「なんだ! インチキじゃないか!」
すると、最初の車掌が、腹立たしそうな、半分冗談のような口調で、
「……臨時雇いをあまりいじめないでくださいよ。好きでやってるんじゃないんだから……」
そう言うと、車の中央に貼り出されている地図の下へ行き、両手でつり革につかまりながら地図を眺め始めました。
車庫には、明るい空電車が外まではみ出して何台も詰め込まれ、あご紐を下げ、巻ゲートルをつけて立っている八、九人の白服姿が浮かび上がっていました。
ひどく人の気配が少ない事務所の中では、監督らしい男が通りへ背を向けて立っており、その前で臨時雇いを志願した男たちが四人ほど、書類に何かを書き込んでいるのが、走っていく電車の上から見えました。
九時を過ぎて、電車やバスのスト破り運転も終わると、電車通りをタクシーが乱暴なスピードで走り始めました。
私はへとへとになって家に帰りました。
茶の間に入ると、
「あーら、お姉さん帰ってきた!」
と、いい年をして弟や妹たちが騒いで手を叩きました。
「遅いから心配しちゃった。三重衝突事故でつぶれちゃったかと思ったわよ」
その辺りには号外や夕刊が散らばっています。
どれもこれも、各所に立てこもったストライキ中の従業員たちの様子や、街の風景を写真ニュースで報じており、「怖し恥ずかし背広の車掌」「非常時運転がこぼすユーモア」「笑いを乗せて」などといった記事が面白おかしく書かれています。
一方で、山下又三郎という名で「総ストライキの首謀者四十五名に解雇を通告」という報道もありました。
『今回のストライキに関し、貴殿を懲戒解雇の処分に付さざるを得なくなったことは誠に遺憾である。しかし、貴殿の行動は本心から出たものではないと推察する。よって来る七日までに復職を願い出た場合、当局の職員として適当と認めたならば、実施案の本旨に鑑み、今回に限って処分を取り消すこともあると念のため申し添える』
「何だか意味深な手紙だねえ」
弟がそう言っています。
「どういうことなの、これ。ねえ、お兄さん。それまでにストライキをやめろってことなのかしら?」
新聞は、今回の総ストライキを「双方が見事な統制で応戦している」と報じていますが、私は市中に出てこの目で見てきただけに、こうして新聞を見ていると奇妙な気分に打たれるのでした。
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