初級翻訳・青いポアン 第7話

神西 清

彼女は洗面台へ手を洗いに立ちました。
水の音を聞くと、村瀬はむっくりと半身をもたげました。
彼女には手を清める暇さえありませんでした。
――何ですか。どうするつもりなの。動いてはいけません。「あれを、あれを取ってちょうだい」
村瀬は歯を食いしばりながら、やっとのことでそう言いました。
彼の片手は、壁にある棚の方へと伸びていました。
「そんなことなら私がしてあげるわ。あなたは静かにしていないとダメよ」
明子がそれを遮ろうとした瞬間、村瀬の手は意外なほど弱々しく、がくりと力なく垂れ下がりました。
それと全く同時に、棚から一冊の鼠色の本が、ページをひらひらと翻しながらベッドの上に伏さるようにして落ちてきました。
村瀬は素早くその本を掴み取りました。
「これなんです」
彼は不気味に顔を歪めて、笑おうとしました。
「何、それは?」
「これに書いてあるんです。長い間、僕を苦しめていたのはこれだったんです。でも、やっと分かりました。やっぱり僕だったんだ」
明子は、ベッドに伏せられたままの本の表紙に目を走らせました。
そこには「伊曾」という名前が印刷されていました。
とすれば、それは伊曾が翻訳して近ごろ出版された、あるイギリスの新しい作家の小説に違いありませんでした。
村瀬がこの鼠色の分厚い本をよく抱えていたことには明子も気づいていましたが、それが伊曾の本だったということは、彼女は今初めて知りました。
彼はうわ言のように言葉を続けました。
「ページの折ってあるところを開けてごらんなさい。そこに『黒い球』のことが書いてあるでしょう。黒い球っていうのは毒薬のことなんです。それを僕が飲むか、あなたが飲むか、どちらかに決まっていたんです。でも、やっぱり僕だった。今、やっと分かりました」
彼は力が尽きたように、ベッドの上へ仰向けに倒れ込みました。
そして、そのまま目を閉じてしまいました。
その様子に引き込まれるように、明子も椅子に沈み込みました。
もちろん、その本の中身を読んでみようという気など、これっぽっちも起きませんでした。
村瀬が子供っぽい仕草で彼女に隠し続けていた秘密は、これだったのです。
彼はこの本の数行の活字を梯子(はしご)にして、三人の伝説の世界へ必死によじ登ろうとしていたのでした。
ですが、どうして? 何のために? 明子はやはり、そこに何か気味の悪いものの命令を感じ取らないわけにはいきませんでした。
それは、あるいは伊曾の眼差しそのもののようでもありました。
そして一瞬、彼女は本当に久しぶりに、伊曾が一人で彼女のそばに来て座るのを見ました。
不気味に、音もなく。
彼女には、わずかにその輪郭しか想像できずにいた、長い争いによって傷ついた青年がそこに横たわっていました。
彼女は哀れむような眼差しで、青年の姿を改めて見直しました。
彼の胸ははだけており、寝間着の間から青白い皮膚が浮かび上がるように見えました。
次の瞬間、彼女は全く別のことを考えていました。
長い間、心の中に押し隠されてきた一つの影響が、この時、花開いたかのようでした。
あたりが花の匂いで満たされました。
青ざめた天の幼児がそっと降りてきて、村瀬の皮膚と重なり合ったのが見えました。
まるでその幼児が成長して、地上の人間の姿となって、その肉体を明子の前に横たえているかのようでした。
彼女は、自分が村瀬を愛したのは、その幼児の青ざめた皮膚を愛するためだったのだと、はっきりと理解しました。
目の前の青年の胸には、二つの菊の花までもが、その血紫色をより黒ずませて飾られているようでした。
……
やがて明子は立ち上がりました。
彼女は医者を呼ぶために、壁のボタンを長く押し続けました。

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