伯母さんは家中のガラクタを持ち寄って、貝細工の屏風を立て回したり、千代紙のお三方にちりちりを盛ったりして調度の足りないところを補い、子供の目にはさも立派なお雛様に見えるようにうまく作ってくれるのです。
緋色の毛氈(もうせん)を敷いた壇の上にきれいな人形たちを並べ、一番上は私の、二段目は妹の、三段目は末の妹のものと決めて、菱餅や爆(はぜ)を供えるときの嬉しさといったらありません。
寝ている間に巻き貝(蠑螺)が逃げやしないかと心配して笑われたことも覚えています。
お節句には、わざわざおけいちゃんを呼びました。
おけいちゃんは、大人びた着物に赤い房のついた被布(ひふ)を着てやってきました。
二人が雛壇の前にちょこなんと座って仲よく豆煎(まめいり)などを食べていると、伯母さんは三つ組みの盃の小さいのをお客様に、中ほどのを私にとらせて、とろとろの白酒を注いでくれます。
白酒が銚子の口から棒みたいに垂れて、むっくりと盛り上がるのを、こくこくと前歯で噛みながら、メダカみたいに鼻を並べて飲むのです。
子煩悩な伯母さんは、こうして小さな者を喜ばせるのが何よりの楽しみで、自分もほくほくしながら「二人ながら可愛ええ、可愛ええ」と両手で一緒に背中をなでてくれます。
乳母は決まり文句の「お雛様のようなご夫婦だ」と言って私たちをからかいます。
おけいちゃんは大人びたふりをして澄ましていましたが、まりやお手玉もちゃんと持っているくせに、いじくっているばかりで少しも遊ぼうとしません。
すごろくや、水中花、十六むさし、南京玉の抜きっこなどをして、ようやく少しはしゃいできたところを、その頃姉から譲り受けた成田屋(市川團十郎)の勧進帳と、音羽屋(尾上菊五郎)の助六の羽子板を持って、ようやく裏へ誘い出しました。
が、二人とも金魚みたいにぞろぞろしているうえに、大きな羽子板が手にあまって、二つ三つつくときには落としてしまいます。
「油屋おそめ、久松十よ」
それでも面白半分に、ぽんぽんとお尻の打ち合いをしました。
五十三
お節句が過ぎると間もなくお父様が亡くなったために、おけいちゃんはその当座しばらく来なかったのですが、ある晩、不意にまたぽくぽく、ちりちりとぽっくりの音をさせて遊びに来ました。けれど、なんだかいつもよりひどく落ち込んでいるようで、私は気が気ではありませんでした。家の者たちもかわいそうに思っていろいろと慰めると、彼女は「あたしの家、明日お引っ越しするの」と言いました。
お祖母様とお母様と一緒に、国へ帰るのだそうです。
おけいちゃんは、
「あたし、お引っ越しは嬉しいけれど、遠くへ行ったらもう遊びに来られないからつまらないわ」
と、やるせなさそうに言います。
私もどうしようかと思うほど情けなくなって、二人してふさいでしまいました。
これが最後のお別れだと言って、その晩はみんな一緒に遊びましたが、乳母もさすがに「本当にお気の毒なことだねぇ」と言いながら、しみじみと彼女の顔を見つめていました。
次の日、おけいちゃんはお祖母様に手を引かれて、玄関までお別れの挨拶に来ました。
私は、いつもの大人びた言葉遣いでしとやかに挨拶をするおけいちゃんの声を聞いて、飛んでいきたい気持ちでいっぱいでしたが、急に訳のわからない恥ずかしさがこみ上げてきて、うじうじと襖(ふすま)の陰に隠れていました。
おけいちゃんは行ってしまいました。
後を見送っていた家の者たちは、口々に「きれいなお嬢様だこと」と言いました。
おけいちゃんは、お雛様のときと同じ着物を着てきていたそうです。
ひとり机の前に座って、「どうして会えなくなっちゃったんだろう」と、甲斐のない涙に暮れているのを乳母はすぐに見つけて、「坊ちゃんもかわいそうにねぇ」と言いました。
明くる日、私は誰よりも早く学校へ行きました。
そしてそっとおけいちゃんの席に腰かけてみると、今更のように懐かしさが湧き起こってきて、じっと机を抱えていました。
おけいちゃんはいたずら者です。
そこには鉛筆で、山水天狗やヘマムシ入道が、いっぱい描いてありました。
これはもう二十年も昔の話です。
私はなんだか、おけいちゃんが死んでしまったような気がしてなりません。
そうかと思えば、時には今でもおけいちゃんが生きていて、折に触れてその頃のことなどを思い出しているような気もするのです。
(大正元年初稿)
後篇
一
中沢先生は気のやさしい人でしたが、随分な癇癪(かんしゃく)持ちで、何かのはずみにカッとなると、教鞭(きょうべん)で人の頭をぐらぐらするほど叩いたりしました。
それでも私は先生が大好きで、ご苦労にも家の庭にある棕櫚(しゅろ)の枝を採っては、痛い思いをさせるために新しい鞭を先生にプレゼントしました。
すると先生はいつもニヤニヤ笑いながら、
「ありがとう。頭を叩くにはこれがいちばんだ」
と言って、ひとつ叩くマネをしてみたりするのです。
私は先生の言うことをひとつも聞かず勝手気ままにしていたので、よっぽど持て余しているらしかったのですが、やっぱり可愛がってくれているのだと、私ひとりで勝手に決めていました。
みんなの行儀が悪いために例の癇癪が起こって、先生の顔が火の玉みたいになると、生徒たちは縮み上がって鳴りを潜めてしまいます。
そんな時でも私は平気の平左で、笑いながら見ているものでした。ある日、先生は見回りに来た校長先生に、私のことを「無神経でしようがない」と言ってこぼしました。
校長先生は傍へ来て、自分の噂を面白そうに聞いている私に、
「先生が怖くないか」
と聞きました。
「いいえ、ちっとも」
私は答えました。
「なぜ怖くない」
「先生だって、やっぱり人間だと思うから」
二人は顔を見合わせて苦笑いしたきり、なんとも言いませんでした。
私はその頃から、鹿爪(しかつめ)らしい大人の殻を通してお中に入り込んでいる、滑稽な子供を見るようになっていたので、一般の子供が持っているような「大人」というものに対する特別な敬意を、到底持つことができなかったのです。
そうこうするうちに、日清戦争が始まりました。
私はかなり重い麻疹(はしか)にかかって幾日か学校を休んだのち、やっとのことで出席したら、意外にも担任の先生が変わっていました。
中沢先生は召集されたのだといいます。
よく軍艦の話をして聞かせてくれましたが、もとは海軍士官で、病気のために予備役になっていたのだそうです。
あの不思議な西遊記の話をしてくれた先生、絵筆をペロペロ舐めて綺麗な絵を描いた先生、棕櫚の鞭で頭を叩くことのほかはなにもかも気に入っていた先生は、もう顔を見ることもできません。
そう思うと胸がいっぱいになって、放課後にみんなを呼び集めて、先生が暇乞いに来た時の様子をなりと、せめて詳しく聞こうとしました。
しかし、彼らはただもうその日その日の遊びに気を取られていて、別れてからまだ半月も経っていないのに、そんなことはとうに忘れてしまってケロリと座っています。
そうして、せっかくの遊びを邪魔されたのが不平らしく、頬を膨らませてもじもじしていましたが、やがてひとりがようやく思い出したように、
「獅子の毛のついた外套(がいとう)を着ていた」
と言いました。
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