母や伯母は「面倒だ、面倒だ」と言いつつも、実はいくらか得意そうで、もう二度と戻ることのない昔の苦労を懐かしみながら、楽しそうにいそいそと桑を刻んでやります。
はじめはただ葉の下に隠れているだけだったのが、日に日に大きくなり、坊主頭を振り立てて、端っこからむしゃむしゃと食べていきます。
私も小さな羊羹の箱に五、六匹入れてもらって、伯母さんが「お蚕様は元はお姫様だったんだよ」と教えてくれたので、寝るときにはちゃんと「おやすみなさい」と挨拶し、朝はまた「おはよう」と声をかけて、留守中の世話をしっかりと頼んでから学校へ行くのでした。
さて、帰ってくれば姉は手ぬぐいをかぶって前掛けの両端を帯にはさみ、私はざるを抱えて桑摘みに出かけます。
そうして指の先を黒くしながら、手の届くかぎり美味しそうな葉を選んで摘みっこをするのです。
冷たい唇から吐き出す糸の美しいつやが仇となって、遠い昔から人の手にのみ育てられてきたこの虫は、自分から食べ物を探そうとはせず、むしろの上に頭を並べて、おとなしく桑の葉がふりまかれるのを待っています。それを伯母さんは「お姫様だったからねぇ、このお行儀のよさは」と、さも本当のことのように言います。
青臭いにおいや、体の冷たさも、はじめのうちこそ気味が悪かったのですが、お姫様だと思えば何もかも平気になり、背中にある三日月形の斑紋を、可愛らしい目だと思うようになりました。
お姫様は四度目の脱皮を終えると、体も透き通るほど清らかになり、桑の葉さえ食べずに、うろうろと歩き回っては入寂(死に場所)を探します。
それをそっと繭棚に移すと、ほどよいところに身をすえ、静かに首を動かして自分の姿を隠すために、白い几帳(きちょう)を織り始めます。
最初はただ首を振っているように見えるのが、いつとはなしに形がはっきりしてきて、神通力で梭(ひ)もなしに織り出した俵形の几帳ばかりが、ころりころりと繭棚に並びます。
私は置いてきぼりになったような気持ちで、「いつまでも取っておく」と言って聞かないのですが、母と伯母はさっさとそれをもぎ取って、鍋で煮てしまいます。
そうして薄黄色く濡れた糸をくるくると枠に巻くと、几帳が無残にほごされてしまい、最後には西どっちの形をした骸(むくろ)が出てきます。
それを兄は餌箱に入れて、釣り堀へと飛んでいくのです。
お姫様の夢はこうして覚め、糸は機屋へ送られて、おかしげな田舎縞の布が織られました。
羊羹の箱にできた繭をいくつかは種にするために残しましたが、私の心がその几帳の奥にまで届いたのか、それともお姫様が光り輝く夏の世を捨てかねたのか、まもなく彼女は真っ黒な目の上に美しい眉を立て、新しい喜びに震える翅(はね)さえ持って、昔の面影をしのばせるような可愛らしい姿を現しました。
そうして右に左に輪を描くようにして睦び合う伴侶を求めて歩くのを、私は竹の中から生まれた人(かぐや姫)を見るよりも珍しく、じっと眺めていたのでした。
蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵を産むのを見て、私の知識は完成しました。
それは誠に不思議な謎の輪でした。
私はいつまでも、このような子供らしい驚嘆の心を持って、自分の周囲を眺めていたいと思うのです。人は多くのものを見慣れるにつれて、ただそれが見慣れたものであるという理由だけで、そのまま見過ごしてしまいがちです。しかし考えてみれば、年ごとに春になると芽吹く木の芽は、毎年私たちを新しく驚かせてくれるはずのものでした。もしそれを見過ごしてしまうというのなら、私たちはこの小さな繭に包まれた程度の、ほんのわずかなことすらも知らないということなのです。
その卵が孵化したときには、桑の木も少なくなっており、人手もなくて、とてもそれだけの数の蚕を飼うことができませんでした。そのため家の者たちは、「どうせすぐに雀が食べてしまうだろう」という浅はかな考えから、去年以来お姫様(蚕)と兄弟のように仲良くなっていた私が留守の間に、その半分ほどをこっそり裏の畑へ捨ててしまったのです。
それを桑摘みに行った拍子にふいと見つけた私は、びっくりして飛んで帰り、訳を尋ねました。しかしみんなは何だかんだとはぐらかして、相手にしようとしません。
私はとうとう感づいて、「どうか拾い上げて飼ってやってくれ」と、手をつかないばかりにして頼んだのですが、どうしても聞いてはくれませんでした。
とはいえ、彼らの老獪な言い訳も、単純無垢な子供の慈悲心を惑わすことはできないと分かると、彼らはついに慣用手段である「大きな声で怒鳴って人を怖がらせてしまおう」というやり方に出ました。
私は悔しさと憎しみがこみ上げ、みんなを睨みつけて気違いのように悪態をついたあげく、裏へ駆け出して泣いていました。
その時、もし私に彼らを打ち負かすだけの力があったなら、彼らを数珠つなぎにして雀の餌にしてやったことでしょう。
それからは毎日、「頭が痛い」と言っては学校を早退し、首を振って飢えを訴えている兄弟(蚕)たちに桑の葉を摘んでやっていましたが、ひ弱な彼らは夜昼の寒さや暑さに耐えかねて、毎日いくつずつか土にまみれて死んでいくのでした。
雨の降り出した夕方のことです。
家からいくら呼ばれても帰らないので伯母さんが出てきてみると、私は捨てられた蚕の上に傘をさしかけて立っていました。
そうして伯母さんの顔を見るやいなや、わっと泣き出してその前掛けに食いついたのです。
仏様のように心優しい伯母さんは、なんとかしてやりたいのは山々だったのですが、どうしようもないことなので、お念仏を繰り返しながら、ようやく私をなだめて連れて帰りました。
その後、家の者はそこに小さな胡麻石の碑が立てられ、その上に私の手で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と書いてあるのを見出したのでした。
九
ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦悩の多い早熟な私にとって、この上ない慰めとなったのは絵を描くことでした。
私は、四条派の絵に堪能であった大殿様からの拝領物だという、粉本(手本)の巻物を父からもらって持っていました。
それは私の秘蔵の一軸であると同時に、伯母さんにとっては、お犬様や丑紅の牛(おもちゃ)と一緒で、ほいほいと持ち出しては私の癇癪をしずめるための虫押さえの妙薬でもありました。
その巻物――鷺だの、鶴だの、松だの、日の出だの、美しい自然のなかでも美しいものの美しい姿ばかりを美しく描き寄せたその巻物は、さすがにまだ虚しく清らかだった私の胸を、言いようのない夢と憧れの陶酔で満たしてしまったのです。
この頃になると、私はもうそれらの絵を見るだけでは満足できなくなっていました。そんなことが何より嫌いな兄の不機嫌を承知の上で、やっと家から買ってもらった安絵具――それは紺色のいい加減なボール箱に、たった八色ほどの絵具と一本の筆が入っていて、箱の上には獅子が跳ねている商標がついていました――と、姉から譲られた筆洗を友として、草双紙(絵本)の透き写しからはじめて、粉本の絵のやさしいものを拾い描きするようになったのです。
コメント