初級翻訳・ちいさこべ 第8話

ちいさこべ

茂次もおりつのその身のこなしを見て、逆にハッとして、「もういい」と顔を背けました。

「ああ、びっくりした」とおりつが言いました。「怖い声。叩かれるかと思っちゃった」

「つまらないことを」

「小さいとき、叩かれたことがあるんですもの」

「つまらないことを言うな。おれは落ちぶれても、女の子を叩いたりなんかしない」

「あたしは叩かれたのよ。七つのときだったわ。今でもちゃんと覚えてる」とおりつは、からかうように言いました。「横町の豆腐屋さんの前で、いきなり『ぴしゃっ』と頬を叩いたじゃないの」

「おまえが七つなら、おれは十二だったはずだ。そんな年で女の子を叩くなんてことが……」そこで茂次は、言葉が続きませんでした。

「ねえ」とおりつが目で笑いました。「思い出したでしょう」

彼は思い出しました。
彼を見かけるたびに、おりつがからかってくること。どんなふうにからかわれたのかは忘れましたが、度々からかわれるので、一度つかまえて叩いたことがあったのです。
そうだ、あのときこいつは涙をこぼした、と茂次は思いました。
反抗もせずに、大きな目でじっとこちらを見て、その目から涙をぽろぽろとこぼしたことを。

「あれは」と茂次は気まずそうに言いました。「あれはおまえが悪いんだ。おれの顔を見るたびにからかったからだ」

「覚えてるわ」とおりつが言いました。「あたし、あんたのこと、若棟梁のこと好きだったのよ。それで、あんたにかまってもらいたくて、わざと意地悪なことを言ったの。だから、そのあと意地悪なんかしたことはなかったでしょう?」

「子供というやつは、難しいもんだな」

「そうね」とおりつが言いました。「菊二のことも、気をつけるわ」

その月の十五日の休みの日に、子供たちを連れて道灌山(どうかんやま)へ遊びに行きました。
おりつとおゆうが握り飯や海苔巻きを作り、おかずの重詰めも用意してくれました。
片道一里半(約6キロメートル)近くあるので、くろも一緒に連れて行き、あっちゃんをはじめ、市や伝などの小さい子が疲れると、茂次とくろとで背負って歩きました。
くろはもう兄弟子たちと一緒に遊びたい盛りなので、行きも帰りもずっとふくれっ面をしていました。

――そのとき、初めて茂次は、おゆうと子供たちの様子を観察しました。
子供たちのおゆうに対する態度は、おりつに対するのとまったく違っていました。
彼らはおゆうの身なりや、美しさ、賢さに、半分恐れながらも、尊敬と憧れを感じているように見えたのです。
おりつには口答えをしても、おゆうの言うことはよく聞くし、いたずらを叱られるとすぐにやめました。
彼らはおゆうの顔色を敏感に読み取って、甘えたりふざけたり、急におとなしくなったりします。
おゆうはあまり叱りませんが、黙っていても、周囲をピリッとさせるような威厳を子供たちに感じさせているようでした。

ただその中で一人、菊二だけはおりつから離れませんでした。
みんながおゆうを取り囲んで騒いでいても、彼はおりつのそばにいて、何かおりつの役に立とうとします。
おりつがうるさそうに追い払うと、そばからは離れますが、おりつから目を離そうとはしませんでした。

――下手をすると、間違いが起こるな。

と茂次は思いました。菊二はひたむきに慕っているようだ。その気持ちをはねつけずに、いいほうへ向けてやれば、なんてことはないはずだ。
だがもし、おりつが「いやらしい」という感情を抱いて、彼を拒絶する態度に出れば、菊二は自分自身を傷つけ、場合によってはやけになってしまうかもしれない。
難しいし、危ういところだ、と茂次は思いました。
帰るとき、茂次は「おゆうさんは駕籠(かご)で帰りなさい」とすすめました。
しかしおゆうは笑ってそれを受け入れず、結局、神田までみんなと一緒に歩いて帰りました。
――その夜、普請(ふしん)場の一つが火事で焼け落ちました。

九

焼けたのは日本橋吉川町の「魚万(うおまん)」という店で、ほとんど普請が終わっていたところを、きれいに焼き尽くされてしまったのです。
これは「大留(だいどめ)」にとって、大きな痛手でした。
料理茶屋というだけでなく、客筋や店主である万兵衛のこだわりで、木材の小口(こぐち)はもちろん、すべてに高価な材料が使われていたからです。
それがすっかり灰になりました。
出来上がって引き渡した後ならまだしも、まだこっちの手を離れていない状態ですから、損害はすべて「大留」が負担しなければなりません。
屋根屋や左官、建具屋などにも、払うべき分は「大留」が支払わなければならないのです。
その現場の責任者だったのは藤造(ふじぞう)で、茂次たちと一緒に焼け跡を見回りながら、「どうしよう」と、まるで頭に血がのぼったような様子でうろたえていました。
「もらい火でよかった」と茂次は言いました。「もし自火(じか=自分たちの火の不始末)だったら、警察の手が回ってくるところだった」
そして茂次は「魚万」を訪ねました。
店は通りの向こうの仮小屋にいて、幸い焼けずに残っていましたが、茂次は万兵衛に会うと、すぐに再建に取りかかると言いました。
藤造の脇にいた大六と助二郎は、あっけにとられた顔で茂次を見ましたし、万兵衛も意外だったらしく「それはちょっと無理ではないか」と言いかけましたが、茂次は「大丈夫、やります」とあっさり言いました。
「ただし一つだけお願いがあります」と茂次は続けました。「正直に言いますが、これまで手いっぱいにやってきましたから、材料を吟味する余裕がありません。大留が立ち直ったら、改めて普請をやり直すことにして、お気に召さないところがあっても、今回は目をつぶっていただきたいのです」
「わしのほうは、もちろんそれでいいが」と万兵衛はまだ信じられない様子で言いました。「しかし、本当に無理ではないのかい?」
茂次はそれには答えず、「お願いします」と言いました。
うちへ帰る途中、大六たちは何やらひそひそと囁き合っていましたが、戻るなり、三人で「話がある」と切り出しました。
茂次は聞くまでもない、余計なことは言うな、と言いました。
ですが、三人は再建が不可能なことを、代わる代わる主張しました。
こちらが火災でやられた後なのだし、魚万のほうだってその事情は知っているはずだ。
ここは手付金を返して謝るほうがいい。それが順当だと彼らは言いました。
茂次は「おやじもそうするか?」と彼らに問い返しました。
「しかし」と大六が言いました。「今は棟梁の代じゃあない。棟梁はもう亡くなった人だし、若棟梁は高輪やあべ川町をはじめ、同業の付き合いまで断わってしまった。助け手といったら木場の和七ぐらいなものだ。それで棟梁の代と同じようにやっていけると思っているのですか?」
「おれはそんなことは言っていない。ただ、こういう場合に、おやじも謝るかどうかを聞いているんだ。謝ると思うか?」
「そりゃあ、けれども事情というものがまるで違いますから」
「それなら、どうして普請を請け負ったんだ」と茂次は言いました。「火事で丸焼けになり、おやじも死んだ。そんな中で三つも大きな普請を請け負うなんて、最初から無理なことだった。おれに相談してくれれば断ったんだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました