かわいそうなアヒルの子にとって、なんという恐ろしい出来事でしょう! アヒルの子はびっくり仰天しました。思わず首をすくめて、羽の下に頭を隠しました。
ちょうどその瞬間、ものすごく大きなイヌが目の前に飛び出してきました。舌をだらりと長く垂らし、目はぞっとするほどギラギラと光っています。イヌは鼻先をアヒルの子のほうへぐっと近づけ、鋭い牙をむき出しにしました。
――ところが、どうしたことでしょう。アヒルの子には噛みつきもせず、そのまままたバシャッ、バシャッと向こうへ戻っていってしまったのです。
「ああ、助かった!」と、アヒルの子はほっとして言いました。「ぼくがあまりに格好悪いから、イヌでさえ噛みつこうとも思わなかったんだね」
アヒルの子はそのままじっとしていました。けれどその間も、ひっきりなしに鉄砲の弾がアシの中へ飛んできて、ザワザワと音を立てていました。お昼を過ぎてようやく、あたりが静まり返りました。それでも、かわいそうなアヒルの子はすぐには起き上がる元気もありません。だいぶ時間が経ってから、やっとの思いで周囲を見回しました。そして大急ぎで沼から逃げ出しました。
畑を越え、草原を越えて、ひたすら走っていきました。そのうちに激しい風が吹き荒れました。おかげで、今度はとっても走りにくくなってしまいました。夕方ごろ、ようやく一軒のみすぼらしい小さな百姓家にたどり着きました。
その家は見るも哀れなありさまで、自分でもどっちへ倒れようとしているのか分からないような様子でした。それでも、どうにかこうにか持ちこたえて立っていたのです。そうしている間にも風はピューピューと吹きつけてきます。アヒルの子は倒れないように、風のほうへお尻を向けて体を支えなければなりませんでした。
けれども、風はますます激しくなるばかりです。そのとき、ふと見ると入り口の戸の蝶番(ちょうつがい)が一つ外れていて、戸が少しだけ開いていました。どうやらその隙間から部屋の中へ入ることができそうです。そこでアヒルの子は、さっそくそこから潜り込みました。
この家にはひとりのおばあさんが、一匹のネコと一羽のニワトリと一緒に住んでいました。おばあさんはこのネコを「坊やちゃん」と呼んでいました。「坊やちゃん」は背中を丸くしたり、喉をゴロゴロ鳴らしたりすることができました。そのうえ、体を撫でられると火花を散らすこともできました。もっとも、火花を出すには誰かに毛を逆さに撫でてもらう必要がありましたが。
ニワトリはとても可愛らしい短い足をしているので、おばあさんは「短い足のコッコちゃん」と呼んでいました。「短い足のコッコちゃん」はとても良い卵を産むので、おばあさんはまるで自分の子供のように可愛がっていました。
明くる朝になると、ネコもニワトリもすぐに、今まで見たことのないアヒルの子がいるのに気がつきました。ネコは喉をゴロゴロ鳴らし、ニワトリはコッコと鳴き出しました。
「どうしたんだい?」とおばあさんは言ってあたりを見回しました。けれども、おばあさんは目がずいぶん悪かったので、このアヒルの子をどこからか迷い込んできた太ったアヒルだと勘違いしてしまいました。
「こりゃあ、いいものが入り込んできてくれた」とおばあさんは言いました。「これからはアヒルの卵も食べられるってわけだ。だけど、オスのアヒルじゃないといいんだけどねえ」「まあ、ためしに飼ってみるとしよう」
こうしてアヒルの子は、三週間のあいだ、ためしに飼われることになりました。でも、もちろん卵は生みません。
この家では、ネコがご主人で、ニワトリが奥さんという役割分担でした。ふたりはいつも、「われわれと世界こそがすべて!」と口を揃えて言っていました。自分たちこそが世界の半分を担っており、それも一番立派な半分だと信じて疑わなかったからです。
アヒルの子には、世界にはもっと別の考え方もあるような気がしてなりませんでした。しかし、ニワトリはそれを断固として認めません。
「あんた、卵を生むことができるの?」と、ニワトリは問い詰めました。
「いいえ」
「じゃあ、黙っていたらどうなの!」
すると今度は、ネコが口を挟んできました。
「おまえは背中を丸くできるのかい? 喉をゴロゴロ鳴らせるのかい? それとも、火花を散らすことができるのかい?」
「いいえ」
「じゃあ、賢い者たちが話しているときは、黙って聞いているものだよ」
こうしてアヒルの子は部屋の隅っこに引っ込んでいましたが、ちっとも面白くありませんでした。そうしているうちに、すがすがしくて気持ちのよい空気や、お日さまの光がなつかしく思い出されてきて、たまらないほど水の上を泳ぎたくなってきました。
アヒルの子はとうとう我慢ができなくなり、その気持ちをニワトリの奥さんに打ち明けました。
「あんた、何を言っているのよ」と、ニワトリの奥さんは言いました。「することがないものだから、そんなとんでもない気まぐれを起こすのよ。卵でも生むとか、喉でも鳴らすとかしてごらんなさい。そんな馬鹿げた気まぐれは、どこかへ飛んでいってしまうから」
「でも、水の上を泳ぐのは本当にすばらしいんですよ」と、アヒルの子は言いました。「頭から水をかぶったり、水の底のほうまでもぐっていったりするのは、とっても楽しいんですもの」
「ふん、さぞかし楽しいでしょうね」と、ニワトリの奥さんは鼻で笑いました。「あんた、気でも違ったんじゃないの? じゃあ、ネコのだんなさんに聞いてごらんなさい。あのひとは、あたしの知っている中で一番の賢者だよ。あのひとに、水の上を泳いだりもぐったりするのが好きですかって聞いてみなさいな! あたしは自分のことは言わないけれど、ご主人のおばあさんにも聞いてごらんなさい。あのおばあさんより賢い人は世の中にいないんだよ。あんた、まさかあのおばあさんが、泳いだり水を頭からかぶったりするのが好きだとでも思っているの?」
「ぼくの言うことが、あなたがたにはお分かりにならないんです!」と、アヒルの子は訴えました。
「ふん、あたしたちにおまえさんの言うことがわからなければ、いったい誰にならわかるっていうのよ? あんた、まさかネコのだんなさんやあのおばあさんよりも、自分の方が賢いなんて言うつもりじゃないでしょうね。まあ、あたしは別としてさ! あんまり生意気なことを言うんじゃないよ、子供のくせに! そんなことばかり言っていないで、ひとが親切にしてくれたことをありがたく思いなさい。あんたはこうして暖かい部屋に入れてもらって、あたしたちの仲間に入れてもらったんじゃないか。おまけに、いろんなことまで教えてもらったんでしょう! それなのに、あんたは本当にまぬけね! あたし、あんたなんかと付き合っていると面白くないわ。だけどね、あたしはあんたのことを思うからこそ、こんないやなことまで言っているのよ。だからこそ、本当のお友だちなのさ。さあ、これからは一生懸命に卵を生むとか、喉をゴロゴロ鳴らして火花でも散らすようにしなさい!」
「でも、ぼくは外の広い世の中へ出ていきたいんです!」と、アヒルの子は言いました。
「それなら勝手におし!」と、ニワトリの奥さんは突き放しました。
コメント