帽子屋も、豚に変身する赤ん坊も出てきませんし、人ではない従者たちも、そして何よりもチェシャ猫が姿を現しません(青虫と、ウミガメのフーミくらいなものです)。
物語は、主人公が姿を変えたり、場所が移り変わったりすることを主軸にして進んでいきます。
最後に、『不思議の国のアリス』の持ち味である、数々のナンセンスや言葉遊びも、ここではあまり見られません。
即興的なものはいくつか目に付きますが、あれこれ頭をひねって作り上げた論理的なナンセンスはまだ少なく、替え歌やダジャレがほとんどを占めています。
口から語られた言葉と、紙に書きつけられた言葉との間には、やはり違いがあるのでしょう。
3
ここで改めて言うまでもないことですが、「アリス」といえば、今や誰もがその姿を思い浮かべることができるキャラクターです。
確かに、この本をプレゼントした相手は実在のアリス・プレザンス・リデルですが、キャロル自身、この物語の中のアリスは、実在のアリスとは「別の存在」であることを自覚していたようです。本にまとめる段階で、意図的に二人を「引き離そうとした」形跡さえ見受けられます。
そもそも、この物語のアリスは年齢からして違います。
このお話に出てくるアリスは七歳ですが、語り聞かせた相手のアリスは当時十歳で、本を贈る頃には十二歳になっていました。
また、挿絵のアリスの髪はウェーブのかかったロングヘアですが、七歳当時のアリス・リデルは、写真を見る限り短いおかっぱ頭でした。
のちにジョン・テニエルが描いた『不思議の国のアリス』の挿絵になると、そこからさらに実物とはかけ離れていきます。
実在のアリスの話はさておき、この物語のアリスは、その後次々と生まれることになる「アリス」というイメージの原形となりました。
記述から読み取れる彼女の特徴をまとめると、このような感じでしょうか。
・しつけの行き届いた上流階級の子女らしく、しっかりとした言葉遣いをする。
・イライラしたときには、さらに嫌味ったらしいほど丁寧に話す。
・そして基本的には、相手に対して強気。
このあたりは、イギリスらしい「気高さ」の表れとも考えられますが、ひとりの少女としては、
・普通に恐がりで、強がりを言いがち。
・けれど、大変な状況でもすぐに楽しみを見いだせる強さがある。
このあたりが、能動的で感情移入しやすく、冒険ものにふさわしいヒロインとして受け入れられている理由の一つでしょう。
このアリス像を成長した実在のアリスへ贈ることについて、キャロルは本編の末尾にある通り、非常に自覚的です。
さらに重要なのは、キャロルがこれを「ぼくらふたりの特別な夏の日の思い出として、親愛なるアリスへクリスマスに贈る」のではなく、献辞からはアリスの名を消し、あえて「ある夏の日の思い出」として、「親愛なる子供(Dear Child)」と呼ぶ誰かへのクリスマスプレゼントにしているという点です。
物語のアリスやキャラクターたち、そして語りかける相手に対しても、つかず離れず少し距離を保ちつつ、さらさらと語るキャロルの筆致は、ノリノリで楽しさに溢れていながらも、どこか落ち着いていて内省的であり、時には冷淡ささえ感じさせます。
キャロルの強い自制心と想像力の間で生まれたアリス――いや、生まれかけていたアリスは、我々の知る通り、その後キャラクターとして自立し、世界へと広がっていくことになったのです。
4
今回の翻訳は、白黒サイレント映画『不思議の国のアリス』の日本語字幕に始まる、私個人の一連のアリス翻訳の四つ目となります。
これまで取り組んできたものを並べると、以下の通りです。
・白黒サイレント映画『不思議の国のアリス』(1903年)
・『不思議の国のアリス ミュージカル版』(1886年)
・『えほんのアリス』(1890年)
・『アリスの地底めぐり』(1863年)
これまではいずれも自由に利用できるものとして公開してきましたが、もちろん今後は本編である『不思議の国のアリス』も、『アリスの地底めぐり』との追記・改訂の差分を確かめた上で、翻訳していきたいと考えています。
いつか、ルイス・キャロル本人が手がけたアリス作品をすべて収録した、コンプリート・アリスのような記念本を作れたら素敵ですね。
訳題が『アリスの地底めぐり』となっているのは、原題が別のものであっても何でもかんでも「~の国のアリス」とするやり方に私自身が賛同できないという理由もありますが、戦前の『Alice’s Adventures in Wonderland』の訳題に「不思議国めぐり」とするものがいくつかあり、「adventure(冒険)」を「めぐり」とするセンスがとても気に入っているからでもあります。「地下」と言うと、どうしても家の地下室や建物の一部のような感じがしてしまうので、冒険の物語としては「地底」という言葉の方がふさわしいのではないか、と考えました。
この物語が生まれてから150年という節目の年に、私がこの翻訳に取り組んだ動機については、すでに「青空文庫ブログ」の予告記事と、文芸誌『水牛のように』2002年7月号にて詳しくお話ししています。
それ以外にも、日頃から友人たちとおしゃべりをする中で(私は、実際にやるかどうか分からない思いつきを、ついペラペラと話してしまう癖があるのです)、この作品を訳してみてはと勧めてくださる方がたくさんいらっしゃいました。こうして最後まで無事にやり遂げることができ、皆さんに恩返しができたのではないかと思っています。
最後に。
この翻訳は無料で公開していますが、完全に無償のボランティア活動というわけではありません。
翻訳作業を講師業の授業用テキストとして活用することで、この仕事に取り組むための時間と対価を確保しています。念のため、お伝えしておきます。
翻訳の底本:ルイス・キャロル(1864)『Alice’s Adventures Under Ground(地下の国のアリス)』
上記の翻訳底本は、著作権の保護期間が終了しています。
2012(平成24)年7月4日~12月24日翻訳
2013(平成25)年1月13日修正
2013(平成25)年3月6日微修正
2015(平成27)年6月13日修正
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」のもとで公開されています。
上記のライセンスに従う限り、訳者に断りなく自由に利用、複製、再配布することができます。
※翻訳に関するお問い合わせは、青空文庫ではなく、訳者本人(http://www.alz.jp/221b/)までお願いします。
翻訳者:大久保ゆう
2015年6月19日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者本人の意向により、インターネットの図書館「青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)」に収録されています。
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