初級翻訳・〔「銀河鉄道の夜」初期形一〕 第2話

〔「銀河鉄道の夜」初期形一〕

僕はあれをよく見て、気持ちをしずめるんだ)
 ジョバンニは、熱くなって痛む頭を両手で押さえるようにして、そっちの方を見つめました。
(ああ、本当に、どこまでもどこまでも、僕といっしょに行ってくれる人はいないのだろうか。カムパネルラだって、あんな女の子と面白そうにおしゃべりしているし、僕は本当につらいなあ……)
 ジョバンニは、なぜかまた涙がいっぱいになってきました。
 そのとき、汽車はだんだん川から一つの崖をへだてて、高いところを通るようになっていきました。
向こう岸もまた、黒い色の崖が、川の岸を下流へ下るにしたがってだんだん高くなっていくのでした。
 そして、ちらっと大きなたろもろこしの木が見えました。
 その葉はぐるぐると縮れていて、葉の下にはもう美し緑色の大きな苞(ほう=つぼみを包む皮)が赤い毛を吐いて、真珠のような実もちらっと見えたのでした。
 とうもろこしはだんだん数を増して、もういまは列のように、崖と線路の間にならび、思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて反対側の窓を見たときは、美しい空の野原の地平線の果てまで、その大きなとうもろこしの木がほとんど一面に植えられて、さやさやと風に揺らいでいました。その立派な縮れた葉の先からは、まるで昼の間にいっぱいいい日差しを吸い込んだダイヤモンドのように、露がいっぱいついて、赤や緑にキラキラと燃えて光っていたのです。
 カムパネルラが、「あれ、とうもろこしだねえ」とジョバンニに言いましたが、ジョバンニはどうしても気持ちが直らなかったので、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、
「そうだろう」
とだけ答えました。
 そのとき、汽車はだんだんスピードを落として静かになり、いくつかの信号機とポイントの灯りを通り過ぎて、小さな停車場にとまりました。
 その正面の青白い時計はかっきり二時を示していました。その振子は風もなくなり、汽車も動かず、静かな静かな野原の中で、カチッ、カチッと正しく時を刻んでいくのでした。
 そして、まったくその振子の音の間から、遠く遠くの野原の果てから、かすかなかすかな音楽が、一本の糸のように流れてくるのでした。
「新世界交響楽だわ」
 向こうの席の女性が、ひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。
 まったくもう車の中では、あの黒服の背の高い青年も、誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなに静かでいいところで、僕はどうしていてももっと楽しくなれないんだろう。どうしてこんなにひとりぼっちでさびしいんだろう。けれども、カムパネルラなんかあんまりひどいよ。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかりおしゃべりするんだもの。僕は本当につらいなあ……)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分隠すようにして、じっと向こうの窓の外を見ながら、痛む頭で次から次へと考えていました。
 すき通ったガラスのような笛が鳴って、汽車は静かに動き出し、カムパネルラもさびしそうに「星めぐりの歌」の口笛を吹いていました。
「ええ、ええ、もうこの辺はひどい高原ですから」
 後ろの方で、誰かお年寄りらしい人が、いま目が覚めたというふうに、半分夢の中でハキハキとおしゃべりしている声が聞こえました。
「とうもろこしだって、棒で二尺も穴をあけておいて、そこへまかないと育たないんです」
「そうですか。川まではよほどありますかねえ」
「ええ、ええ、川までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になっているんです」
 ――そうそう、ここはコロラドの高原じゃなかったろうか?
 ジョバンニは思わずそう思ったのです。向こうでは何を考えているのだろう、一番上のお姉ちゃんが小さな妹を自分の胸に寄りかからせて眠らせながら、黒い瞳をうっとりとさせて、何を見るでもなく考え込んでいましたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛を吹いていて、二番目の女の子はまるで絹で包んだリンゴのような顔色をして、ジョバンニの見る方を見ていました。
突然とうもろこし畑がなくなって、大きな黒い野原が一面に広がりました。
新世界交響楽が地平線の果てから湧き上がり、一人のインディアンが白い鳥の羽根を頭にかざり、たくさんの石を腕と胸につけて、小さな弓に矢をつがえて、一目散に汽車を追いかけて来るのでした。
「あら、インディアンですよ。
インディアンですよ。
おねえさま、ごらんなさい」
黒服の青年も目を覚ましました。
ジョバンニもカムパネルラも立ち上がりました。
「走って来るわねえ、あら、走って来るわ。
追いかけているんでしょう」
「いいえ、汽車を追っているんじゃないんですよ。
猟をするか踊るかしているんです」
青年は今どこにいるか忘れたというふうにポケットに手を入れて立ちながら言いました。
まったくインディアンは半分は踊っているようでした。
第一、走るにしても足の踏み方がもっと効率よく、本気にもなれそうでした。
にわかにくっきりと、その白い羽根は前の方へ倒れるようになり、インディアンはぴたっと立ち止まって、すばやく弓を空に射ました。
そこから一羽の鶴が、また走り出したインディアンの大きく広げた両手に落ち込みました。
インディアンとうれしそうに立って笑いました。
そしてもうどんどんその影は小さくなり、電柱のガイシがキラっきらっと続いて二つばかり光り、こっち側の窓を見ますと、汽車は本当の高い高い崖の上を走っていて、その谷の底には川がやっぱり幅広く明るく流れていたのです。
「ええ、もうこの辺から下りです。
何せ今度は一気にあの水面まで降りていくんですから容易じゃありません。
この傾斜があるもんですから、汽車が決して向こうからこっちへは来ないんです。
ほら、もうだんだん早くなったでしょう」
さっきの老人らしい声が言いました。
どんどんどんどん汽車は降りていきました。
崖の端に鉄道がかかる時は、川が明るく下にのぞけたのです。
ジョバンニはだんだん心が明るくなってきました。
汽車が小さな小屋の前を通って、その前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは、思わずほうと叫び出したいと思ったほどでした。
どんどんどんどん汽車は走っていきました。
車中の人たちは半分後ろの方へ倒れるようになりながら、しっかりしがみついていたのです。
ジョバンニは思わずカムパネルラと顔を見合わせて笑いました。
そしてもう天の川は汽車のすぐ横手を、ゆっくりと前のように光って流れていたのです。
うすあかい河原ナデシコの花があちこち咲いていました。
汽車はようやく落ち着いたようにゆっくりと走っていました。
向こうとこっちの岸に、星のかたちとツルハシを描いた旗が立っていました。
「あれ何の旗だろうね」
ジョバンニがカムパネルラにたずねました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。
鉄の舟が置いてあるねえ」
「ああ」
「橋を架けるところなんじゃないんでしょうか」
女の子が言いました。
「ああ、あれ工兵の旗だねえ。
架橋演習をしているんだ。
けれど兵隊のかたちが見えないねえ」
その時、向こう岸近くの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って、柱のように高くはねあがり、どぉと烈しい音がしました。

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