初級翻訳・かもめ 第5話

かもめ

夜が明ける前、沼の毒から生まれたお前たちは、太陽が昇るまでフラフラさまようだけで、自分の考えもないし、やりたいこともない、生きている喜びのドキドキすらないんだから……。お前のなかに、命がめざめるのをこわがって、すべてのもののパパである悪魔は、一瞬もやすまずに、石や水のなかと同じように、お前のなかでも、原子を入れかえているんだ。
だからお前は、ずっと流れつづけている。
この宇宙のなかで、いつまでも変わらないものがあるとすれば、それはただ「こころ(霊魂)」だけなのさ。
(ちょっと間)
誰もいない深い井戸の中にほうりこまれた人みたいに、わたしは自分がどこにいるのかも、このあとどうなるのかも、全然わからない。
わたしにわかっているのはただ、物質の力をあやつる悪魔をあいてにして、ずっとはげしい戦いを続けるうちに、いつかわたしが勝つってことだけ。そうすれば、物質とこころがきれいにとけあって、世界をひとつにまとめる大きな王さまの国があらわれるんだ。
だけどそれは、千年、また千年と、ものすごーく長い時間がすぎて、あの月も、ピカピカ光るシリウスも、この地球も、みーんな粉々になって消えたあとのことさ。
……それまでの間は、こわいことばかりだけどね。
……(ちょっと間。
湖のむこうに、赤い光が二つぽっとあらわれる)
ほら、やってきたわ! わたしの強敵、悪魔がね。
見るだけでもぞっとする、あの火みたいな二つの目が……
アルカージナ なんだか硫黄のにおいがしてきたわね。こんな演出、本当に必要なわけ?
トレープレフ うん、必要だよ。
アルカージナ (クスッと笑って)ふーん、なるほど、効果満点ってわけね。
トレープレフ お母さんってば!
ニーナ まわりに誰も人間がいないから、退屈でしかたがない……。
ポリーナ (ドールンに向かって)ねえ、帽子をぬいだらだめじゃない! 風邪をひいちゃうから、ちゃんとかぶりなさいよ。
アルカージナ おや、お医者さまが、すべてのもののパパである悪魔のまえで、帽子をとってごあいさつなさったってわけね。
トレープレフ (カッとなって、大声で)もうお芝居はおしまいだ! たくさんだ! 幕をおろして!
アルカージナ ちょっと、なに怒ってるのよ?
トレープレフ もうたくさんなんだよ! 幕だ! 早く幕をおろしてってば!(とんとと足を踏みならして)幕! (カーテンがガーッと下りる)失礼しました! お芝居をつくったり、みんなの前で見せたりするのは、ほんの一部のえらばれた人たちだけだってこと、うっかり忘れちゃってたもんだからさ。
僕はよその畑を荒らしちゃったんだ! 僕なんか……いや、僕なんかさ……(まだ何か言いたそうだけど、手でシッシッと払って、左の方へスタスタと去っていく)
アルカージナ いったいどうしちゃったのかしら、あの子は?
ソーリン おいおっ母さん、そりゃひどいよ。
若い子たちのプライドは、ちゃんと大事にしてやらなきゃだめじゃないか。
アルカージナ わたし、あの子になにか変なこと言ったかしら?
ソーリン だって、みんなの前で恥をかかせたろう。
アルカージナ あの子自分で、「これはただの余興の茶番劇です」って先に言ってたじゃない。
だからわたしも、茶番のつもりで見てあげてたのにさ。
ソーリン まあそうだけどさ、にしたって……
アルカージナ ところが、いざふたを開けてみたら、ものすごい力作だったわけじゃない! やれやれ!
あの子が今夜の芝居を自分で仕組んで、硫黄のにおいまでプンプンさせたのも、茶番なんかじゃなくて、ものすごい「ぼくの主張」のつもりだったんだわ。
……あの子はわたしたちに、お芝居ってものはこうやって作るんだ、こうやって演じるんだって、教えてあげるつもりだったのよ。
ぶっちゃけ、いいかげんうんざりしちゃうわ。
何かにつけてわたしに突っかかってきたり、いやみを言ったりするのはあの子の勝手だけどさ、こんなことされたら、誰だってうんざりしてゲロが出そうになるわよ! ほんと、わがままで自分勝手な子なんだから。
ソーリン あの子はただ、退屈しているお前を元気づけたかっただけなんだよ。
アルカージナ あらそう? それなら、もっとふつうの楽しいお芝居をやってくれればいいのにさ、なんでまた選りに選って、あんなワケのわからないデカダンスのタワゴトを聴かせようとしたわけ?
茶番のつもりならどんなタワゴトでも付き合ってあげたけどさ、あれじゃ野心マンマンじゃない――「ぼくが芸術に新しい形をもたらしてやるんだ!」とか「新しい時代の幕開けだ!」とかさ、ものすごい大いばりの意気込みじゃないの。
わたしに言わせたらあんなの、新しい形でもなんでもなくて、
ただのひねくれ者の根性曲がりよ!
トリゴーリン 人間は誰だって、自分が書きたいことを、自分に書けるやり方で書くものさ。
アルカージナ じゃあ勝手に、書きたいことを好きなように書けばいいわよ。
ただ、わたしには一切かかわらないでほしいの。
ドールン ジュピターよ、なんじは怒れり、か……(※補足:「だからお前は間違っている」という意味のラテン語のことわざ。
ドールンはこの言葉で、遠回しにアルカージナをからかったつもりだったんだけど、彼女は全く気づかずに――)
アルカージナ わたしはジュピター(ゼウス)なんかじゃないわよ、ただの女よ。
(タバコを取り出してくわえる)
別に怒ってなんかないわよ。
ただね、若い男がいつまでもあんな退屈な時間つぶしをしているのを見ると、歯がゆくてたまらないの。
あの子に恥をかかせるつもりなんて、これっちっちもなかったんだから。
メドヴェージェンコ あのですね、どう考えても、こころ(霊魂)と物質をきっぱり分ける理由なんてないですよ。
そもそも霊魂だって、物質のちっちゃな原子が集まってできたものかもしれないんですからね。
(声を大きくして、トリゴーリンに向かって)いっそ、僕たち学校の先生がふだんどんな生活をしているか――それを戯曲に書いて、舞台の上で演じてみてはどうですかねぇ。辛いです、じつに辛い生活です!
アルカージナ ごもっともね。
でももう、お芝居や原子の話は終わりにしましょうよ。
こんなに素晴らしい夜なんですもの! 聞いて、ほら、歌っているのが聞こえる? (耳をすませる)いいわね、とっても!
ポリーナ 向こう岸でございますよ。
(間)
アルカージナ (トリゴーリンに向かって)ここにお座りなさいな。
十年前か十五年前、この湖では音楽や合唱がほとんど毎晩、途切れることなく聞こえてきたものだわ。
この岸に沿って、地主の大きなお屋敷が六つもあったのよ。
忘れもしないわ、賑やかな笑い声やざわめき、猟銃の音が響いて、そのうえいつも、あちこちでロマンスが歌われていたわね。
……そのころ、その六つのお屋敷のアイドルで、一番の人気者だったのは――さあ、ご紹介するわね(ドールンをあごでしゃくって)――お医者様のドールンだったのよ。
今でもこうして素敵な男前だけど、当時に比べたら、それこそ飛ぶ鳥を落とする勢いだったんだから。
それはそうと、なんだか急に気がとがめてきちゃったわ。
可哀想に、どうしてわたし、うちの息子にあんな恥をかかせちゃったのかしら? すごく心配だわ。

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