初級翻訳・かもめ 第10話

かもめ

ふたりは家の中へ入っていく)
ニーナ (ひとりぼっちになる)あんなに有名な女優さんが、あんなにつまらないことで泣いちゃうなんて、どう考えても不思議よねえ! それに、もっと不思議なのは、世の中ですごく人気がある小説家――新聞にいつも取り上げられたり、写真が売られたり、外国語にまで翻訳されているようなすごい人が、一日中ずっと釣りをしていただけで、「ダボハゼが二匹も釣れたぞ!」ってニコニコしていることだわ。これもなんだか変てこね。
私、有名な人っていうのは、近寄れないくらい偉そうで、周りの人間を下に見ているものだと思い込んでいたの。
家柄とかお金ばかりをありがたがる世の中に対して、自分の立派な名誉や素晴らしい知名度を使って仕返ししてやるんだって、勝手に思っていたのよ。
ところがどうでしょう。泣いたり、釣りをしたり、カルタで遊んだり、笑ったり、普通の人間とちっとも変わらないじゃない。
……
トレープレフ (帽子をかぶらずに登場。
猟銃と、かもめの死骸を手にしている)ひとりぼっちかい?
ニーナ ええ、そうよ。
トレープレフは、かもめの死骸を彼女の足もとにそっと置く。
ニーナ これ、いったいどういうこと?
トレープレフ 今日ぼくは、このかもめを殺すような最低な真似をしてしまった。
それを、きみの足もとに捧げるよ。
ニーナ いったいどうしちゃったの? (かもめを持ちあげて、じっと見つめる)
トレープレフ (少し間を置いて)そのうちぼくも、こんなふうに自分自身を殺すことになるだろうね。
ニーナ なんだかすっかり人が変わっちゃったみたい。
トレープレフ ああ、きみが別人のようになって以来ね。
きみの態度は、すっかり変わってしまったよ。
目つきまで冷たくなって、ぼくがいるとすごく窮屈そうじゃないか。
ニーナ 最近のあなたは、なんだかすぐ怒るし、言うこともはっきりしなくて変な例え話ばかり使うわ。
今だって、このかもめにしたって、きっと何か深い意味があるんでしょうけれど……ごめんなさい、私にはさっぱりわからないわ。
……(かもめをベンチの上に置く)私、頭が単純だから、あなたの考えていることが理解できないのよ。
トレープレフズバリ、すべての発端は、ぼくの書いた劇があんなめちゃくちゃな失敗に終わったあの晩からなんだ。
女というものは、男の失敗を決して許さないからね。
ぼくはあの劇の台本をすっかり燃やしてしまったよ、切れ端ひとつ残さずにね。
ぼくが今どれほど惨めな気持ちか、きみに分かればいいのに! きみが冷たくなってしまったことが、ぼくは怖くてたまらないんだ。まるで、信じられないような悪夢を見ている気分だよ。
まるで、朝起きてみたら、この湖がいきなり干からびていたとか、地面の中に吸い込まれて消えていたみたいな衝撃さ。
今、きみは「頭が単純だから私の考えがわからない」って言ったね。
ああ、そんなの分かるわけないさ! あの劇が気に入らなかったからって、ぼくの才能や情熱まで見くびって、きみはぼくのことを、そのへんにうようよいる凡百のくだらない奴らと一緒にしてしまっているんだ。
……(地面をトントンと強く踏み鳴らして)わかってるさ、ちゃんと知ってるんだから! ぼくは頭に釘を打ち付けられたような気分だよ。
そんなもの、ぼくの血を蛇みたいに吸い尽くす、ちっぽけな自尊心もろとも、いっそ全部呪われてしまえばいいんだ!
……(トリゴーリンが手帳を読みながら歩いてくるのを見つけて)ほらみろ、本物の天才様のお出ましだ。
歩き方までまるでハムレット気取りで、もちろん本を手放さないでね。
……(バカにしたような口調で)「言葉、ことば、ことば」ってか……まだ太陽の光がまともに当たらないうちから、もうニヤニヤしちゃって、目つきまでその光でとろんとしちゃってるよ。
邪魔はしないさ、どうぞご自由に。(足早に立ち去る)
トリゴーリン (手帳に何か書き込みながら)かぎタバコを好み、ウォッカを飲む……。
いつも黒い服を着ている……。教師が恋する……
ニーナ ごきげんよう、トリゴーリンさん!
トリゴーリン ごきげんよう。じつは思いがけない事情があって、どうやらわれわれは今日ここを発つことになりそうです。あなたとまたいつお会いできるか……いやあ、本当に残念だな。私は、ごくたまにしか若いお嬢さん――若くてしかもきれいなお嬢さんに会う機会がないものでね、十八や十九の年ごろっていったいどんな気持ちでいるものか、すっかり忘れてしまってどうもうまく頭に思い浮かばないんだ。だから、私の作品に出てくる若い女の子たちは、大抵が作りものばかりですよ。私は、せめて一時間だけでもいいからあなたと入れ替わって、あなたの物の考え方や、全体としてあなたがどういう人なのか、すっかり知ってみたいものですね。
ニーナ わたし、ちょいちょいあなたと入れ替わってみたいわ。
トリゴーリン どうしてだい?
ニーナ 有名ですごい作家が、どんな気持ちでいるものか知りたいからですわ。有名って、いったいどんな感じがするものかしら? ご自分が有名だっていうことを、どうお感じになっているんですか?
トリゴーリン どうって? まあ別になんともないものですよ。そんなこと、ついぞ考えたこともないな。(ちょっと考えて)ふたつのうちどっちかだな――私の名声をあなたが大げさに考えているか、それとも、名声というものが自分にとっておよそ実感としてピンとこないかなのかね。
ニーナ でも、自分のことが新聞に出ているのをご覧になったときは?
トリゴーリン 褒められればいい気分だし、やっつけられたときは、それから二日間はすっかり不機嫌になるね。
ニーナ なんてすばらしい世界なの! 私がどれほどそれを羨ましいと思っているか、あなたにわかっていただけたらいいのに! 人の運命って、本当にさまざまよね。退屈で誰にも気づかれない一生を、やっとの思いで引きずっている、みんな似たり寄ったりの不幸な人たちがいるかと思えば、一方にはあなたのように――百万人に一人の、面白くて明るくて、意味に満ちた生活を送る巡り合わせの人もいるんですもの。あなたはお幸せだわ。
トリゴーリン 私が? (肩をすくめて)ふむ……。あなたは名声だの幸福だの、何かこう明るくて面白い生活だのとおっしゃるけれど、私にとっては、そんなありがたそうな言葉はみんな、失礼ながら、私が一度も食べたことがなくて敬遠しているマーマレードみたいなものなんですよ。あなたはとても若くて、とても優しい。
ニーナ あなたの生活は、とっても素敵な生活よ!
トリゴーリン 別にいいところなんかないですよ。(時計を取り出して見る)私はこれから行って書かなくちゃならないんだ。どうか許してほしい、時間がないんだよ。(笑いながら)あなたはね、世間で言うところの「人の痛いところ」を、ぐいと踏んづけちまった。だから私はこうして興奮して、ちょっとばかり腹を立てているというわけさ。だがまあ、もう少しお話ししましょうか。その私の、すばらしい、明るい生活についてね……。さてと、何から始めたものか? (少し考えて)強迫観念というものがあるんです。

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