すると、キャラコさんがスッと前へ進み出ました。
「私を見てください」
キャラコさんと山本氏を真ん中に挟んで、みんながその周りにぐるりと輪を作ったその時、顔を真っ青にした槇子がフラリと部屋に入ってきました。
「いったい、何がはじまろうって言うのよ」
まるで女王様からお言葉でもいただいたかのように、あちこちから口々に答えが返ってきます。
「世界一の手相見の先生が、これからキャラコさんの未来を占うところなんだよ!」
それを聞いた槇子は舌打ちをして、
「ちぇっ、くだらないね。……そんなところで突っ立ってないで、みんなこっちへ来いよ!」
しかし、誰もその輪から離れようとはしませんでした。
山本氏はキャラコさんの手のひらをじっと眺めていましたが、何かとんでもない大発見でもしたかのように、「おおっ」と低い感嘆の声を漏らしました。そして、キラキラと輝く鋭い目で一同の顔をゆっくり見回すと、落ち着いた低い声で語り始めました。
「この手は、実に非凡な手相です。何十万人もの中から、まれにたった一つだけ見つかるような珍しい手です。……順序を追って説明しましょう。まず第一に、この方は大変に勇敢な気性の持ち主です」
すると越智氏が、バカにしたような冷笑的な口調で割り込みました。
「みんなが怖がって尻込みしているうちに、一番乗りで飛び出したんだからそりゃあ勇気がある方だろうさ」
その言葉に、周りのみんなはどっと笑い出しました。
しかし山本氏は耳も貸さず、話を続けました。
「あなたは非常に健康で、その健康はなんと晩年までずっとつづきます。そして、聡明で沈着、さらに大変に忍耐強い人だ」
今度はワニ君が口を挟みます。
「それについては、僕もすっかり認めますね」
周りから「シッ、シッ!」と静かにさせる声が起こりました。
「……卑猥にも、不潔なものにも、決して染まることがありません。あなたは生まれてから今まで、まだ一度も嘘をついたことがない。この世で最も堅実で道義心の強いどの男性よりも、もっと堅実で、もっと道徳的な人です。本当に稀に見る素晴らしい手相ですね。……それから、この小さな線! なんでもないこのちっぽけなシワの中に、私は並外れた運命のきざしを発見しました。この線が示すところによれば、あなたには想像を絶するほどの莫大な幸運と、一口には言い表せないほどの莫大な財産が備わっています」
その言葉を聞いて、みんなは「わあッ!」と大声で笑い出しました。
その中でも、槇子の意地悪な嘲笑がいちばん高く、部屋中にイヤに響き渡りました。
山本氏は、哀れむような優しい眼差しで一同をゆっくりと見回しながら言いました。
「私は、今まさにその財産をすべて持っていると言っているのではありません。しかし、私は誓って申し上げます。思いがけない劇的な事情によって、このお嬢さんはその大いなる幸運を手にするのです。……皆さんは笑っていらっしゃいますが、ご自分たちの未来についていったい何をご存知だというのですか? ご自分が明日どうなるか、明日死ぬことさえご存知ないくせに。……私の見立てでは、この部屋の中にこそ、まさにそういう劇的な運命をたどる方がもう一人いらっしゃいます」
もう、部屋の中には誰も茶化す声を出す者はいませんでした。
すると槇子が、ロッキングチェアからドスンと立ち上がって山本氏の目の前に歩み寄り、何も言わずに無言で自分の手のひらをピッと差し出しました。
山本氏はその手のひらをじっと凝視していましたが、ゆっくりと顔を上げると、ゾッとするほど異様に光る眼差しで槇子の目を真っ直ぐに見つめ、こう告げました。
「この手のひらは、いま現在のあなたに、とてつもなく大きな危険が迫っていることを物語っています。……この手のひらにハッキリと表われていることすべてを、ここにいる皆さんの前で包み隠さず申し上げてもよろしいかな?」
それを聞いた槇子は、サッと血の気を失って真っ青になり、慌てて手を引っ込めると、ぶるぶる震える低い声で、
「いいえ、結構よ……自分でもよくわかっているから!」
そう叫ぶと、まるで何かから逃げ出すように、一目散に社交室を飛び出していきました。
六
夜中から激しく吹き荒れていた強い冬の風は、夜が明けても少しもおとろえず、ものすごい勢いで海の上を唸り声をあげて吼え廻っていました。
午後を過ぎるころになると、空低く垂れ込めた重苦しい雨雲の切れ間から薄日がポツリポツリと漏れはじめ、嵐はしだごとにおさまっていきましたが、海の表面はいまだ一面に恐ろしいほど泡立ち、岸に押し寄せる怒涛は、まるで地響きのような轟音を立てて冷たい岩肌を激しく噛み砕いていました。
しかし、激しい嵐が吹き荒れていたのは大海原の上だけではありませんでした。ホテルのこの『社交室』のなかでも、今朝からまるで目に見えない恐ろしい突風のようなものが吹き荒れていたのです。
あの沼間氏に関して、誰も想像すらしていなかった驚くべき、そして意外な真実が、ある人物の口からうっかり漏らされてしまったからでした。
沼間氏が経営する第九十九銀行といえば、この国でも最も信用のある堅実な個人銀行の一つに数えられており、沼間氏自身もまた、押しも押されもせぬ大富豪のひとりとして知られていました。
ところが、金融界の誰も、そして大切な預金者たちでさえ誰も気づかないうちに、いつの間にか沼間氏は一文なしのすっからかんになっており、あろうことか銀行そのものの経済状態さえもが、今や崩壊寸前の危機に瀕していたのです。沼間氏が、沼間銀行を通じて莫大な投資をしていた『択捉漁業』は、昨年秋の漁区不許可問題にひっかかって破産し、沼間氏は資本の回収不能に陥って、銀行の金庫に、全財産を投げ出してもまだ数十万円の足が出るような大穴をあけてしまった。
これは沼間氏一個人の大思惑で、他人の名儀でひそかに投資していたものだから、損害の補填がつかぬうちにこの事実が暴露すると、沼間氏は、当然、背任横領の罪に問われなければならない。
こういう内実を糊塗するために、贅沢なホテル住居をし、ことさら、無闇に金を浪費している沼間夫人とその二人の娘は、その内幕へ入ると、じつは、どの人間よりも不幸で、どの人間よりも貧乏なのであった。
この情報を『社交室』にもたらしたのはワニ君で、その噂の出どころは、昨日の夕方このホテルへやって来たイヴォンヌさんの父親の山田氏だった。
山田氏はホテルの食堂で、日ごろ尊敬する石井長六閣下の愛嬢に対する、沼間一族の高慢無礼な仕打ちに腹を立て、義憤のあまり、ぶっちゃけて沼間家の裏の事情をワニ君にすっぱぬいた。
それくらいの目にあわしてやってもいいと思ったのである。
それと、もう一つは、槇子と猪股氏の婚約成立の報知だった。
これは、ホクホクと笑み崩れた猪股氏自身の口から披露された。
この二つの情報をつづくり合せると、沼間夫人がどういう目的でこのホテルへやって来たか誰にもすぐ了解された。
銀行の金庫を補填するために、二人の娘をここへ競売に来たのである。
この報知をきいて、最も打撃を受けたのは越智氏だ。
系図と伊達を売り物にして、纒まった持参金にありつこうと日夜骨を折った甲斐もなく、その相手は空手形だった。
ワニ君が、慰め顔にいった。
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