ベッドの上にあお向けに寝かせて、ものすごくそっと胃袋のまわりをゆっくりと撫でまわしていたかと思うと、そのうち「ちょっと体を右を下にして横にしてみて下さい」と言う。
そして右を下にして横向きにさせながら、さっきと同じところをまた撫でまわして、今度は左を下にして同じことをくりかえす。
そういうことを二回くらいくりかえしているうちに、この若いお医者さんの顔が、ものすごく真剣でこわい顔つきに変わった。
「どうも変ですね。
あなたは今朝、朝ごはんを何時に食べたんですか。
どれくらい食べましたか」
「八時ごろです。
ごはんを軽めに二杯と、お味噌汁を一杯と、煮魚を一切れくらいでしょうか」
「そうでしょうね。
だけど今はもう十時だから、食べたものはまだ胃の中にあるはずなんです。
それだけの食べ物が胃の中にあれば、右を下や左下にしたりすると、その重さで胃袋が下へ垂れさがってくるはずなのに、あなたの胃袋は、まわりの臓器との位置関係が、ちっとも変わらないんです。
胃のまわりにものすごい癒着(まわりの組織とくっついちゃうこと)が起きていると考えるほかありませんね」と言う。
なるほど、これは重さの力を利用したすごい実験だ。
これは面白いぞと、ぼくはすっかり機嫌がよくなった。
「それでは」と武見さんは、まじめな顔のまま、「もう一度、脈を拝見しましょう」と言って、左右の手首を両手でしっかり握り、ストップウォッチを見ながら、しばらくじっと診ている。
そしてその姿勢のまま、「それでは二十回、深呼吸をしてみて下さい」と言う。
深呼吸をしている間はもちろんのこと、それが終わってもいつまでもずっと脈をとっている。
ものすごく長い時間だった。
なんと五分間も両手を握ったまま脈の数をかぞえていたけれど、やがて「だいたいわかりました。
あなたの病気は、頭のほうが悪いんだと僕は思いますね」と言ったんだ。
これにはぼくも、ちょっとポカンとして力が抜けてしまった。
「胃のまわりにこういうひどい癒着ができるのは、いろんな原因が考えられますけれど、脳の中にある間脳(かんのう)という場所の働きがおかしくなって、自律神経がダメになると、胃周囲炎(いしゅういえん)という病気が起きることがあるんです。もっとも滅多にない病気で、ドイツの医学書にも五行くらいしか書いてないような病気ですが、あなたのはどうもそれらしいんですよね。
深呼吸をすると、四回に一回の割合で脈が乱れるんですが、呼吸を止めて五分くらいすると、またもとの正常な脈にもどるんです。
こういうのは心臓の病気じゃなくて、自律神経の不調なんですよ。
だから、脳のほうの治療を先にしなければいけませんね。
もっとも、自律神経がこんなにやられているなら、血管のいちばん細いところ(毛細管)の先も、きっとひどくボロボロに崩れているはずだから、ウルトロパークでちょっと見てみましょう」と言うんだ。
ウルトロパークっていうのは、ライツ社が売り出している特別な顕微鏡で、ふつうの顕微鏡みたいに下から光をすり抜けさせて見るんじゃなくて、上から光を反射させて、光を通さない固いものの表面を調べる顕微鏡なんだ。
ウルトロパークなら、実はぼくがいつも仕事で使っている器械で、何年もの間ずっと親しんできたおなじみの顕微鏡だった。
爪の付け根の一番皮膚がうすいところにセダーオイルを塗って、そこをウルトロパークで覗くと、毛細管の先の形が、皮膚をすき通して見えるというわけなんだ。
ぼくの指先を顕微鏡の台の上のせたら、武見さんは片方の手でライトの明るさを調節しながら、もう片方の手でウルトロパークのピントを合わせた。しばらくその様子を見ていた武見さんは、やがて「ねえ君、ちょっとこちらを覗いてごらん。ひどくなっているよ」とうれしそうに言いました。
あまりありがたくない言葉ですが、仕方なく覗いてみると、なるほど確かにひどい状態になっていました。
本来なら、毛細管の先はきれいな螺旋(らせん)の形を描いて皮膚のすぐ近くまで来てもう一度戻るはずなのに、その螺旋の形がどこにも見当たらないのです。
「なるほど、ひどいですね」と、私もお医者さんの機嫌に合わせて相槌を打ちました。
せっかくお医者さんがうれしそうにしているのだから、合わせるよりほかありません。
「君、これじゃあ胃のまわりの癒着(ゆちゃく)だってもっとひどくなるよ。きっと胆管(たんかん)のあたりも引きつって、胆汁がうまく腸へ送られていないはずだ。そうなると、消化不良をはじめとしていろんな体の不具合が起きてくる。もっとも、それならおしっこの中に胆汁が出ているはずだけどね。ひとつ、おしっこを採って調べてくれませんか」
看護師さんがおしっこの胆汁検査をしている間に、私はこの「胃周囲炎」という、なんともありがたい(?)大病についてお話を聞きましたよ。
よほど珍しい病気のようで、武見さんも「あなたが初めての患者さんですし、しかも教科書に載せたいくらい完璧な症状ですね」と、なんだか褒めてくれました。
私も「先生のその診察のやり方は、まるで実験物理学のキモをついているみたいですね」とお世辞を言い返しておきました。
この病気はものすごく慢性的なもので、ここ二年や三年で始まったわけではなく、なんと二十年くらい前から続いていたものだというのです。
「朝起きたとき、口の中にネバネバした唾がいっぱいたまっていたことはありませんか?」と聞かれてハッとしました。
思い返してみれば、中学校の寄宿舎にいた頃からまさにその通りで、毎朝なんだかイヤな気分で目を覚ましていたのを思い出しました。
二十年以上も、調子の悪い脳みそを頭の中に大事にしまったまま過ごしていたのかと思うと、ちょっぴりガッカリしてしまいました。
そうこうしているうちに、看護師さんがおしっこの入った試験管を持ってやってきて、検査の結果は「ものすごい陽性反応(異常あり)」だと告げました。
「これくらい検査できればもう十分でしょう」ということになり、控室で心配そうに待っていてくれた岩波さんと小林君に、診察室に入ってもらいました。
「どうですかね、これ、治るんですかね?」と、岩波さんがいつものせっかちな調子で尋ねます。
「診察するのはものすごく難しい病気ですが、治すのは簡単な病気ですよ」と、武見さんは落ち着き払って答えました。
「とにかく今の状態では、肝臓ジストマをやっつけるのはあと回しですね。まずは脳のほうを治して、それから胃のまわりのくっつき(癒着)をはがして、体全体の栄養を元通りに回復させましょう。そうですね、まずは三、四カ月くらいかかるかもしれません。それがすんでから、ジストマ退治にとりかかりましょう。なに、ちゃんとしっかり効く薬がありますから安心してください。脳のほうは『ベレルガール』という薬で治ります。癒着のほうは少しやっかいですが、『クエン酸ソーダ』がよく効くと思いますね。胃袋の内側のほうは『ビオトモサン』か何かで保護することにすれば、きっと大丈夫でしょう」
という頼もしいお話でした。
「食べ物はどうすればいいんですか?」と聞いてみると、
「お肉でもなんでも、自分の好きなものを食べていいですよ。お酒が好きなら、少ししくらい飲んでもかまいません。
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