」豚は返事しようと思ったが、その前にたべたものが、みんな咽喉へつかえててどうしても声が出て来なかった。
「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰えまいか。
」
「はあ。
」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。
「それはほんの小さなことだ。
ここに斯う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。
死亡承諾書、私|儀永々|御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡|仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長|殿 とこれだけのことだがね、」校長はもう云い出したので、一瀉千里にまくしかけた。
「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。
死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。
ここの処へただちょっとお前の方肢の爪印を、一つ押しておいて貰いたい。
それだけのことだ。
」
豚は眉を寄せて、つきつけられた証書を、じっとしばらく眺めていた。
校長の云う通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を読んで見ると、まったく大へんに恐かった。
とうとう豚はこらえかねてまるで泣声でこう云った。
「何時にてもということは、今日でもということですか。
」
校長はぎくっとしたが気をとりなおしてこう云った。
「まあそうだ。
けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。
」
「でも明日でもというんでしょう。
」
「さあ、明日なんていうよう、そんな急でもないだろう。
いつでも、いつかというような、ごくあいまいなことなんだ。
」
「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか。
」豚は又金切声で斯うきいた。
「うん、すっかりそうでもないな。
」
「いやです、いやです、そんならいやです。
どうしてもいやです。
」豚は泣いて叫んだ。
「いやかい。
それでは仕方ない。
お前もあんまり恩知らずだ。
犬|猫にさえ劣ったやつだ。
」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。
「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣っていますよう。
わあ」豚はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。
けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしまう。
その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。
ところがその次の日のことだ。
あの畜産の担任が、助手を連れて又やって来た。そして例のたまらない目つきで豚をじろりと見てから、とても機嫌の悪い顔で助手に向かってこう言ったんだ。
「どうしたんだい。
すっかり痩せ細ってしまったじゃないか。
これじゃあまるでお話にならないよ。
そのへんの農家で飼ったってこれくらいには育てるぞ。
いったいどうしちまったんだ。
心当たりはないのかい。
頬の肉なんかすごく減っちまっている。
おまけに肩のあたりだって、こんなにペラペラになっちゃいないはずだ。
これじゃ品評会になんて出せやしない。
いったいどうしてこうなったんだい」
助手は自分の唇に指をあて、しばらくじっと考えてから、ぼんやりと答えた。
「さあ、昨日の午後に校長先生がいらっしゃっただけです。
それだけだったと思います」
それを聞いた畜産の先生は、びっくりして飛び上がった。
「校長が?
そうかい、校長か。
きっとあの『死亡承諾書』を取ろうとして、とんでもないヘマをやらかしたんだな。
豚をすっかりびびらせちまったんだ。
だからこいつはパニックになって、昨夜は一晩中眠れなかったに違いない。
こいつはとんでもないことになったぞ。
おまけに、きっと承諾書も取り損ねちまったに違いねえ。
まずいことになったなあ……」
先生は本当に悔しそうに、しばらくキリキリと歯を鳴らし、腕を組んでからまた言った。
「ええい、仕方がない。
窓をぜんぶ開けてくれ。
それから外へ連れ出して、少し運動させるんだ。
めちゃくちゃに叩いたり走らせたりしちゃ絶対だめだぞ。
日の当たらないところ、厩舎(きゅうしゃ)の陰のあたりで、雪のない草むらを、そろそろと連れて歩いてやってくれ。
一回十五分くらいにな、それから当分はエサをやらないで、ちょっとお腹を空かせてやるんだ。
すっかり気分が直ったら、キャベツのいいところを少しだけやれ。
それからだんだん調子が戻ってきたら、今まで通りに戻せばいい。
まったく、一ヶ月かけて育てた肥育(ひいく)を、たった一晩で台無しにしちまったな。
いいか、頼んだぞ」
「承知いたしました」
先生が職員室へ帰っていくと、豚はすっかり気力を失って、ぼんやりと向こうの壁を見つめたまま、もう動くことも叫ぶこともしたくなかった。
そこへ、助手が細い鞭(むち)を持って、ニヤニヤしながら入ってきた。
助手は囲いの出口をあけると、ものすごく丁寧な口調で言ったんだ。
「ちょっとお散歩はいかがですか。
今日はとてもよく晴れていて、風も穏やかでございますよ。
それではお供いたしましょう」
――ピシッ!
と、背中に鞭が飛んできた。
まったく、こんなのたまらないよ。
ヨークシャー種の豚は仕方なくのそのそと小屋を出たけれど、胸は悲しみでいっぱいで、歩くたびに心が引き裂かれそうだった。
助手はのんきに後ろをついて歩きながら、アイルランド民謡の『チッペラリー』の口笛をのんびり吹いている。
鞭もぶらぶらと揺らしている。
いったい何がチッペラリーだ。
こんなにわたしは悲しいのに、と豚は何度も口をとがらせる。
助手は時々、
「ええ、もう少し左の方をお歩きになりましては、いかがでございますか?」
なんて、口先ばかり上手いことを言いながら、またピシッと鞭をくれてくるんだ。
(この世は本当につらいつらい、本当に苦しみの世界なんだ……)
ピシャリと叩かれながら散歩を続けながら、豚をしみじみと考えた。
「さあ、いかがですかそろそろお休みにならいませ」
助手はまた一発、ピシッとやる。
ウルトラ大学生のみんな、こんな散歩のどこが面白いっていうんだい?
健康のためになんて、これっぽっちもなりゃしないよ。
豚は仕方なくまた豚舎に戻り、どきっと藁(わら)の上に横たわった。
助手がキャベツの青くていいところをほんの少し持ってきた。
豚は本当は食べたくなかったけれど、助手がすぐそばにまっすぐ立って、なんとも言えない恐ろしい目で上からじっと見つめているものだから、本当にどうしようもなくて、少しそれをかじるふりをしたら、助率はやっと安心して「ふんっ」と一つ鼻で笑ってから、また『チッペラリー』の口笛を吹きながら出て行った。
窓がすっかり開きっぱなしになっていたので、豚は寒くて寒くてたまらなかった。
こんなふうにして、ヨークシャー種の豚は一日中物思いに沈みながら、夢のように過ぎていく三日間を送った。
そして四日目のこと、また畜産の先生が助手と一緒にやってきた。
先生はちらっと豚をひと目見て、手をひらひらと振りながら助手に言った。
「だめだ、だめだな。
初級翻訳・フランドン農学校の豚 第3話
フランドン農学校の豚
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