初級翻訳・レモンの花の咲く丘へ 第16話

レモンの花の咲く丘へ

(少し間を置いて)本当にお月様は空の真ん中を歩いていらっしゃるけれど、そのご様子がまるで何か大変な心配ごとでもあるかのように見えるじゃないか。それに私には、いつもよりずっと形が大きく見えるし、光が青く見えるし、なんだか震えていらっしゃるように見えるよ。雲の間を通っていく時は、忍び足で、なんだかおそるおそる、まるで暗殺者たちの群れの中をびくびくしながら通り抜けていくみたいだ。
お月様のまわりを取り囲んでいる雲は、ふだんの夜とはちがって、形がとても気味悪く見えるじゃないか。
心優しい王様を毒殺しようと、毒の入った杯を口もとへ突きつけているような雲、お墓の門をたくさんの亡者たちがうち破ろうとしている雲、お葬式のひつぎを尼寺の尼僧たちと処女ばかりが送っていくような雲、運河の上を数えきれないほどの帆船が進んでいて、その舟の中には死に装束を着た男や女、老人や子供の亡者ばかりが乗り込んでいて、呪いの叫びをあげているような雲……(間)そして一番はっきりと見えるのは、天才らしい若い音楽家が、勝負に負けてショックのあまり命を落としてしまうように見える雲だけど、あの青年はなんだか誰かに似ている気がするなあ。
使女B どの雲でございますか。
女子 (窓のところへ来て、空を指さし)今、音楽堂の丸い屋根の上にじっと止まって下を見下ろしている、あの雲の形がそう見えるじゃないか。
使女A (笑いながら)まるでクラゲが踊っているように見えるではありませんか。
使女B 頭のすこし足りない子供が裸で大騒ぎしているようにも見えますけれど。
使女A ほんとうに、そのようにも見えますね。
女子 (首を横に振りながら)ううん、そんな形じゃないよ。あれはすごく悪いことが起きる前触れの雲なんだよ。
どうしていつまでも丸い屋根の上から離れないんだろう。
ほかの雲はみんな丸い屋根を越えて、遠くへ遠くへと流れていくのに、あの雲だけはそのままで、じっと音楽堂を見下ろしている。
あれこそが不吉なしるしだって言っているんだよ。
使女B お嬢様は昨日の夜からずっと、とても気持ちが高ぶっていらっしゃいます。
神経がピリピリしすぎていらっしゃるんです。
女子 昨日の夜のことなんて、絶対に口に出さないでおくれ。
あれはほんの一時、魔が差したっていうだけなんだから。
使女A 魔が差したのはお嬢様ばかりではございません。
あんなにたくさんいらっしゃった騎士や音楽家の方々が、一人残らず片ひざをついて眠りこんでしまい、夢心地で楽器をお弾きになったというのも……。
使女B あれはみなさんごいっしょに、魔が差したと申すものなのでしょう。
その中でもお嬢様が一番お美しいせいで、だから一番深く魔物に心を奪われてしまったというものなのでしょうね。
女子 あの晩、私はいつの間に館を出て裏庭のケシ畑へ行ったのか、自分でも少しも分からないんだ。
(間)ただ覚えているのは、白髪の音楽家が銀の竪琴を弾いたこと、そしてその音が胸にしみ入ると、私はいつになく――笑わないでおくれ、私はいつになく、心が誘惑に染まってしまったこと。ちょうど一年前、北の浜辺で赤い薔薇の花を、紫のマントを着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った、若くて美しい音楽家にもらった時のような気持ちになったことを、今でもはっきりと覚えているの。
使女A 高い塔の上でヴァイオリンを弾いていらっしゃった若様が、その時、ケシ畑の中で、今お嬢様がおっしゃったような、紫のマントを着て、月桂樹の冠をかぶり、銀の竪琴を持った若くて美しい音楽家をご覧になったということではございませんか。
使女B いいえ、月桂樹の冠だけはかぶっていなかったと申しておりましたが。
使女A あぁ、そうだったと申しておりましたね……。
お嬢様はその音楽家をご覧にならなかったのでございますか。
女子 私はそんな音楽家は見ていないけれど……。
(と考え込みながら)
使女B 白髪の老人だと言われていた音楽家が、実はあの若く美しい、紫のマントの音楽家だったのではありませんか。
女子 私も、もしかしたらそうだったんじゃないかと思うけれど……(間)ううん、そんなはずはないわ。
もしあの老人の音楽家が私の思っているあの人なら、私はきっとその人に連れていかれていたにちがいないもの。
使女A 連れていかれそうになったのを、若様が引き止めてくださったということではございませんか。
使女B 若様が歌ってくださった歌が、お嬢様のお耳に届いたので、お嬢様が正気にお戻りになったということではございませんか。
女子 若様が歌ってくださった「死に行く人魚」の歌が、あの時私の耳に入って、私を目覚めさせてくれたのは、本当にそのとおりだと思う。
(小声でその歌を歌う)

亡くなった人には白い藻草(もぐさ)を着せかけよう。
閉じられた瞳の上には、
黒髪の幾筋かと、
鈴蘭の花をそっと置いておこう。

どうしてこの悲しい歌が、私を正気に戻してくれたのか、私には分からないわ。
使女A あの怪しい老人の歌ったいやな歌に、歌で打ち勝ったということではございませんか。
使女B 老人の歌った歌を、お嬢様は今でも覚えていらっしゃいますか? 血が泣くような、いやでいやでたまらない歌を。
女子 (小声で歌う)

短い命が暗闇に沈む、
赤い薔薇のあざ笑い。
罪こそ楽しい遊びだと思う時の人間の心、
それが暗闇の赤い薔薇。

本当にいやで恐ろしい歌だこと。
ただ口ずさんだだけでも、底知れぬ罪の洞窟へと引きずり込まれていくような気持ちがするわ。……だけど、なんだか懐かしくて、切ない思いがわき上がってくるのはどうしてだろう。ちょうど、人に隠れてこっそり逢引き(あいびき)する夜の、罪の意識と喜びがとけ合ったあの切なさに、この歌のメロディがよく似ているんだよ。
――それにこの歌は、どうしてか前にもどこかで聞いたことがあるような気がする。
使女A 北の国の浜辺で、お嬢様に赤い薔薇の花をお渡しになった、あの若くて美しい音楽家がお歌いになったのではございませんか。
女子 (手を軽くたたいて)ほんとにそう言えばその通り、間違いなくあそこで聞いたに違いないわ。魔法の光みたいに輝くあの人の瞳が、私の目を引きつけている間に、お歌いになった歌に相違ないわ。どうしてあなたはそれを知っているの?
使女A 知っているのではありません。
何事につけてもお嬢様のお心を強く引きつける不思議な出来事は、みんなどの人がなさる仕業のように思えますので、それでそのように申し上げたまででございます。
(女子は黙り込んで考え込む。
二人の使女も黙っている。
月の光が少し暗くなり、海の上に白い影が浮かび上がる)
女子 海の上に、白いものが浮いて見えるわ。
音楽堂の下の岩陰から、だんだんこちらへ近づいてくる。
使女A 夜を飛ぶダイアナという水鳥でございます。
女子 ダイアナにしては、形が大きすぎるんじゃないかしら。
私にはどうやらあれも、不吉な前触れのように思えるんだよ。
使女B いいえ、水鳥の群れでございます。
ダイアナはよくあのように群れを作って、夜の海で遊ぶものでございます。
ほら、ご覧になってください。

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