嫁にいったとすれば、小石先生はもう学校をやめるのではなかろうかというのがマスノの意見だった。
小ツルがそれにさんせいし、小林先生も、嫁にいくのでやめたと、記憶のよいところをみせた。
そしてまた、やめてもらいたくないという希望をいち早く口に出したのもマスノであった。
めずらしく早苗とコトエがさんせいした。
早苗がコトエに、
「小石先生、も一ぺんあいたいもんなあ」
「うーん。
いつかしらん、うどん、うまかったなあ」
コトエがいった。
みんなはそれで、四年前のことをはっきり思いだした。
その小石先生が、今日学校にきているかどうかは、みんなにとって大問題になってきた。
みんなの足は、知らずしらず早くなった。
なかば走りながらマスノは、
「かけしようか、小石先生きとるか、きとらんか」
「しよう、なにかけるん?」
うてばひびく早さで、小ツルが応じた。
「まけたら、ええと、ええと、すっぺ(しっぺい)五つ」
森岡正がそういうと、マスノは右手を高くあげながら、
「すっぺ五つなら、まけてもええわ。
うち、先生きーとる」
「うちも」
「うちも」
なんのことはない、みんな小石先生が来ているというのだ。
とうとうかけはながれたまま、学校へ近づいた。さすがに五年生になった新入生たちは、ちょっぴりきまじめな顔をして校門をくぐりました。
ふと見ると、職員室の窓から小石先生がこちらを見つめています。
「おいで、おいで」と手招きされると、みんなは嬉しくなってそのほうへと駆け出しました。
「もう来る頃か、もう来る頃かと待っていたのよ。ちょっと待ってね」
そう言いながら外に出てきた小石先生は、みんなと一緒に歩きながら土手のほうへと連れていってくれました。
ひとりひとりの顔をじっと見つめながら、先生は言いました。
「みんな大きくなったじゃないの。今に先生の背にも追いついちゃうわね。あら、小ツルちゃんなんて、今にも追い越しそうよ!」
小ツルが自分の肩と先生の肩をならべてみると、
「へえ、負けちゃった。でもしょうがないか、小石先生だもんね!」
みんなはケラケラと笑いました。
「それにしてもあんたら、いつまでも『小石先生、小石先生』って呼ぶもんだから、私、いつまでたっても『大石先生』になれないじゃないの」
またみんなで笑い合いました。
笑ってはいるものの、みんなまだどこか緊張しているのか、あまり言葉が出てきません。
「なんだか今日はやけにおとなしいのね。五年生になったら、こんなにおしとやかになっちゃったのかしら?」
それでも子どもたちがニコニコしているだけだったのは、目の前の小石先生が、なんだか以前と少し大人っぽく変わって見えたからでした。
肌も白くなっているし、すぐ近くに来ると、スミレの花のようなすてきな香りがします。
それが「お嫁さんのにおい」なのだと、子どもたちはちゃっかり知っていました。
「せんせい……」
やっとの思いでマスノが口を開きました。
「先生、また唱歌を教えてくれるの?」
「そうよ。唱歌だけじゃないわ。今度みんなのクラスの担任になるのよ」
「わあーっ!」と歓声があがり、子どもたちは急にいつもの調子に戻ってワイワイと話し始めました。
「先生!」「先生!」と、だれかが代わる代わる呼びかけ続けます。
そうやって先生の名前を呼びながら話しているうちに、岬の村で起きたいろんな出来事が、海の青い色や潮風の音といっしょに、先生の心へまっすぐ伝わっていくようでした。
コトエの家では最近、おばあさんが脳卒中で亡くなってしまったこと。ソンキのお母さんはリウマチでずっと寝込んでいること。
早苗の額にあるかすり傷は、ついこないだミサ子と二人で肩を組んでスキップしながら走っていて、道路から浜へ落ちてしまったときの怪我だということ。
キッチンの家では豚が三匹も豚コレラで死んでしまい、お母さんがショックで寝込んでしまったことなど、話は尽きることがありませんでした。
すると小ツルは、先生の腕をつかまえて揺さぶりながら言いました。
「先生! 仁太は、どうして学校に来てないの?」
「あ、それ、私も聞こう聞こうと思ってたのよ。いったいどうしたの? 病気なの?」
子どもたちはすぐには答えず、お互いの顔を見合わせてくすくす笑っています。
先生もつられて笑いながら、「これはきっと、仁太がまたとびっきりおバカなことをしでかしたに違いない」と心の中で思いました。
「どうしたのよ。病気じゃないの?」
早苗の顔を見て尋ねると、早苗は黙って首を横に振り、ぎゅっと目を伏せてしまいました。
「落第したの!」
ミサ子が代わりに答えました。
「あら、本当に?」
驚く先生を笑わせようとでもするように、小ツルがすかさず言いましただって、
「あいつ、いっつも鼻たれとるさかい!」
みんなはゲラゲラ笑いましたが、先生はなぜか笑えませんでした。
「そんなこと、うそよ。鼻水をたらしているくらいで落第するなら、みんな一年生のときに落第しちゃうわよ。きっと病気なんかで、たくさん学校を休んじゃったんでしょ?」
「でも、男の先生がそう言ったもん! 『鼻たれは次第送り』って言うのに、仁太は四年生になってもまだ鼻たれが治らないから、もう一回四年生からやり直しだって!」
小ツルのその言葉に、みんなは一斉にツンツンと自分の鼻をすすってみせました。
それには先生も少しフッと笑いましたが、すぐに心配そうな顔になりました。
始業の鐘が鳴り、みんなと別れて職員室へと戻りながら、先生の頭の中は仁太のことでいっぱいになっていました。
「かわいそうに……」と、思わず声がこぼれます。
落第した仁太が、弟の三吉と同級生になって、もう一度やり直す四年生の教室を想像すると、胸の奥がどんよりと曇ってきたのです。
『鼻たれは次第送り』なんて、もし男の先生が本当にそんなふうに言ったのだとしたら、仁太を四年生にとどめることこそ、彼にずっと鼻をたれっぱなしにさせておくようなものではないか。
あの体ばかり大きな仁太の無邪気さが、それで失われてしまったとしたら……それはきっと、仁太の一生について回る大きな不幸になってしまうのではないか。
今日、ひとりだけ学校に取り残された仁太のさびしさが、ひしひしと胸に迫ってきて、先生は心の中で何度もその言葉を繰り返しました。
――鼻たれは次第送り。
――鼻たれは次第送り。
仁太はどうして取り残されてしまったんだろう?
それを竹一にでももう一度よく聞いてみようと思った大石先生は、お昼休みの時間が来るのを待って、そっと外へ出ました。
運動場を一望できる土手の柳の木の下に立つと、竹一の姿は見当たらず、まっさきに目に入ってきたのは松江でした。
松江はなぜかひとりだけ校舎の壁にもたれかかり、しょんぼりとしていました。
手招きをすると、土手の下までトコトコと走ってきて、まるでお母さんそっくりの、気恥ずかしそうな笑みを浮かべました。
先生が手を伸ばすと、ますますお母さん似の顔を赤らめながら、恥ずかしそうに引っ張られて近づいてきます。
先生が仁太のことを聞こうとしているとも知らない松江は、自分ひとりの気まずさから何とか逃れようとするかのように、せっぱ詰まった声で呼びかけました。
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