宝石をちりばめた木の下に、花が隙間なく降り積もるような極楽浄土でお迎えするのを心待ちにしていらっしゃるとお聞きした頃は、寂然や俊成などとも、そのありがたいご意志を語り合い、どれほど喜ばしく思ったことでしょうか。
しかし、納経のご希望が叶えられなかった時から、竹の梢に当たって流れる金の弾丸のように、あなたのご意志はあらぬ方向へと走り去り、鳴門の潮の逆風に怒って天に届くような、恐ろしいご祈願を立てられたと密かにお聞きしました。どうかその噂が嘘であってほしいと、これまで祈り続けてきた甲斐もなく、それでは本当にこの娑婆の世界に強い執着を残し、あの兜率天(とそつてん)の素晴らしい楽しみを得られずにいらっしゃるのでしょうか。どうしてそこまで、あなたのお心が一つのことに囚われてしまうのでしょうか。
空が澄み渡れば谷には雲が沈むものですが、峰を吹き払う風に押されて、ただあなたという心の月が明るく輝いてさえいれば、どんなに厚い浮き雲が空を覆い隠そうとも、輝く月は迷いのない天の真ん中にぽっかりと浮かび、その清らかな光は静まり返った深い潭(ふかみ)の底まで届くはずです。『雲が憎らしい』とばかりにお思いになるのは、いったいどうしてなのでしょうか。雨になり、霞となり、雪にもなる雲には、それ自体としての確かな実体などありません。ましてや夏の日の峰のようにそびえ立ち、秋の夕暮れの魚のウロコのように連なり、ある時は蝶のように飛び、ある時はイノシシのように駆け回って、のろく動いたり素早く動いたりして空をゆくのは、雲が自分からそうしているわけではなく、すべて風が仕向けていることなのですから、何をわざわざ取り上げて憎む必要があるでしょうか。
そもそも尺取虫(しゃくとりむし)は体を伸ばしたかと思うと縮こまり、車輪は上に昇ったかと思うとまた低くなります。弓を射る力が限界に達すれば、飛ぶ矢の勢いも変わってしまい、空を向いていたはずの矢の先端が地に突き刺さることにもなります。だからこそ、欲界の六つの天はたとえ高くいずまいを正していても、寿命の福報が尽きれば宝の殿堂はたちまち崩れ去り、魔王の十善の行いとて、それがいくら立派であっても終わりが来れば業の苦しみがすぐに襲いかかってきます。人間の一生が五十年の石火のきらめきのようなものであるだけでなく、天上の何万年という時間も電光のようなものなのです。
あなたの恨みも晴らしたいお気持ちになりましょうし、怒りも爆発させたくおられることでしょう。さて、その復讐を果たした暁には、あなたはいったいどうなさるつもりでおられるのですか。一旦は俗世を離れる道に入られたものの、迷いの絆を断ち切る鋭い剣を手にされなかったのですか。輪廻の苦しみは嫌がられたものの、『人や我の実体など空しいものである』という真理まではご納得なさらなかったのでしょうか。どうしてこんなちっぽけなことに、忌々しくもご自身がつまずいてしまい、法を運ぶ牛の車を捨てて、罪がもたらす火の車に自ら乗ろうとなさるのですか。
存在の本質が空であるのを知性だけで遮り、自己に対する執着が幻の炎のようなものだとするならば、怒っているという『我』とはいったいどこに存在するというのでしょうか。『怒っているのが私だ』と思うのでしょうか、それとも『私のなかに怒りがある』と思うのでしょうか。考えることすべて、口にする言葉すべて、あらゆる出来事が本当に真実だと言えるでしょうか。疑わしく思えば思うほど、すべては疑わしいものと感じられます。
笑いも恨みも、そして喜びも悲しみも、夕方にやってきて朝には去っていく旅人が、野原の中の一軒家にしばらく宿るようなもので、仮に名づけられた我が身の中をただ通り過ぎていくだけのものです。どれが本当の主人のだと言えるでしょうか。旅の客を引き留めて自分の主人と仰ぎ、泥棒を自分の子供だと勘違いするようなものであり、それでは後悔してもしきれない結果を招くことになります。
恐れ多くも、あなたほど聡明で並ぶ者のないお方が、凡人ですら考えつかないようなことをあえて行い、千人の命を断とうと怒りの刀を振りかざした悪人アングリマラの行いに似たことを学ぼうとなさるのですか。一人の女性の呪いに惑わされて、素晴らしい教えを授ける才能を無にしようとした阿難陀(あなんだ)の過ちにも似た、あまりにもお気の毒で、残念で、言葉にできないほどの大きな過ちを犯そうとなさるのですか。
カンカン照りの日の前の一時の雨、聖なる智恵を持つお方の一つの過ちです。どうか今すぐにお心を翻し、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に沈み、四つの生(胎生・卵生・湿生・化生)のなかに迷い続ける醜さから抜け出してください。そして、仏の唯一の教えに帰依し、精神を集中する三昧(さんまい)の境地に入るという正しい道にお戻りください。
あなたほどの広大で素晴らしい前世からの善い行いを積まれたお方なれば、一瞬のうちにお心を転換させることができれば、指を弾くわずかな時間の間すら置くこともなく、神通力の宝の車に乗り、大空を飛び越えて速やかに真如の清らかな領域に到り、素晴らしい光を放って永遠に燃え盛ることができるのです。どうしてそんなことが疑わしいと言えるでしょうか。
仏と魔は紙一重であり、凡人と聖人は一つであり、煩悩こそがそのまま悟りであり、苦しみのこの世がそのまま浄土なのです。一つの宝珠をわずかに受け取りさえすれば、八歳の竜女がその場で仏になれたと聞いております。仏の教えを聞く器ではないとされる女性でさえそうなのですから、ましてや十善の位にある天子の優れた才能をお持ちのあなたが、どうして悟りを開くことができないでしょうか。
お経には、『悟りを開き、多くの人々を救うのは、すべて悪人であった提婆達多(でばだった)が良き師であったからだ』と説かれています。それなのに、あなたは誰を憎いとお思いなのでしょうか。恐れ多くも、いったい誰が憎いとお思いなのですか。怨敵こそが、実は悟りの道へと導いてくれる本当の師なのです。怨敵こそが、実は道の師なのです。
目を大きく見開いてこの広大な世界を見渡してみるに、我が君の怨敵となるようなものが、いったいどこにいるでしょうか。もし本当に我が君の敵となるような者がいるならば、痩せ衰えた老法師の力は乏しいものではありますが、我が君がわざわざお力を使われるまでもなく、大聖威怒王(不動明王)の悪を打ち砕くお宝の剣をお借りし、神鳥ガルーダの猛烈な炎の勢いをも頼みとして、我が君の怨敵を直ちに粉々に、灰にしてしまいましょう。
とはいえ、我が君の敵などどこを探そうているでしょうか。毒薬とされる巴豆(はじゅ)や附子(ぶし)もみな貴重な薬であり、邪魔をする悪神ビナヤカの本拠地も、その本質を辿ればそのまま毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)なのです。ですから、名医・耆婆(ぎば)が眼を開けば、大地に生い茂るすべての草木が命を保つ霊薬でないものはなく、仏陀が教えを説けば、虚空の隅々にいる鬼の神々ですら、すべて仏法を守る善い神ではないものはいないのです。
あなたの敵はいったいどこにいるのでしょうか。
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