要するに、恨む相手と親しい相手という二つの区別は、どちらも空に浮かぶ花のような仮の姿であり、怒りも喜びもどちらも幻のようなものなのです。雪だと思って見たら桜の花が乱れ散っていたという春の夜の月に照らされた景色が、本当の月ではないのと同じです。水がなくて凍りついた勝間田の池に秋の夜の月が映っているのを見たとしても、それが本当の月ではないのと同じです。
世の中の一切の区別というものは、突き詰めればただの言葉遊びの名前でしかありません。真如という仏の教えの海からひしゃく一杯分の水をすくい取り、それを自分への執着の冷たい風で凍らせた氷を、まるで『これこそが本当の自分だ』と思い込むならば、熱いお湯はたちまち敵となるでしょう。真実の金山から少しばかりの材料を持ち出して、愛と欲望という毒の火でねずみの形に鋳物として作り上げたとき、それを自分自身だと思い込んでしまえば、猫の銅像は敵となるかもしれません。しかし、もともと氷とお湯の間に隔たりのない同じ水であり、ねずみも猫も違いのない同じ金であるならば、仮の姿のものがお互いに滅び合ったり、幻のものが一緒に消え去ったりするのを待つまでもなく、その本質はそのまま空であり、物事の真理はそのまま明らかになります。
おのずから心が晴れやかになり、天には果てしなく広がり、峰の木枯らしが吹き、海の音が聞こえ、川は遠く白く、山は青々と輝くのです。いったい何を怒ることがあり、何に迷うことがありましょう。どうか一刻も早く、曲がりくねった邪悪な道を捨てて、正しい道を進む大きな心をおこしてください」
と、私が我知らず地面を叩いて切にお諫め申し上げますと、院の御霊は、山の谷間が揺らぎ木や石までもが震え出すほどに、恐ろしく、そして不気味にお笑いになってこうおっしゃいました。
「愚かだな、円位よ。仏がそんなに好ましいものだと言うのか。魔がそんなに嫌なものだと言うのか。安らかな楽園など望むにも足りず、苦しみや悩みなども避ける必要などない。何を遠慮して、自分で自分の意地を抑え、感情を曲げなければならないというのか。妄執だと笑いたければ笑うがいい、朕はその妄執を命として生きているのだ。煩悩だと言いたければ言うがいい、朕はその煩悩を骨組みとして立っているのだ。
愚かだな、お前というやつは。仏教の四弘誓願(しぐせいがん)だって菩薩の妄執であり、仏陀が五つの時期に説いた教えだって仏陀の煩悩なのだ。法蔵菩薩の四十八の願いも妄執であり、観音菩薩の三十三の変化の姿も煩悩なのだ。過去・現在・未来のあらゆる世界の、ガンジス川の砂の数ほどの諸仏や菩薩たちの中に、妄執や煩悩のない者が一体どこにいるというのか、どこにいるというのか。
釈迦が長い舌を使って四十余年もの間語り続けた託言や繰り言、自分が尊いとする無駄口やおしゃべりなどが、どうしてこの朕を完全にだますことなどできようか。恨みは恨みであり、敵は敵なのだ。復讐をしないで、どうしてこの朕が『朕』でいられようか。今は世の中の一切の教えも、そして一切の世の中の姿も、森羅万象、人間も動物も草木も、すべてが朕の敵なのだから、すっかり打ち壊してしまわなければ気が済まないのだ。この心に染まない大千世界を、見よ、見よ、燃え盛る火の前の片方の羽となり、風に吹き飛ばされるほんのわずかな塵にしてくれようぞ。
仏に六種類の神通力があるならば、朕には千種類もの魔の業通がある。ありとあらゆる生きとし生けるものを、すべて朕の魔界へと引き入れて、朕の部下にしてやり尽くしてくれるわ。お前が述べ立てたような説教は、丸坊主の愚か者どもが決まり文句のように語る、何とも醜い、醜いお決まりのセリフだ。早く立ち去るがいい。お前のような者のくだらない怒りをなだめるための、胡餅(こもち)の一片くらいで、この朕を欺こうというのか。迂闊(うかつ)だな、迂闊だな。
思い出してみるがいい。かつて朕がこの讃岐の果てにやって来て、沈み果てた壊れた舟のような身でありながら、年月を過ごしたあの頃を。杉の板葺きの屋根に当たる霰(あられ)の音を聞きながら悲しい夜を泣き明かし、つれない風が吹く日を送り、心も砕けるような荒磯の波の響きの中で霜の降る朝に、一人で目を覚ました時のあの恐ろしさを。思いも積もるある里の雪の中で、灯火がパチパチと瞬く夜、ただ自分の影が無機質に古びた障子にしみ込んでいるのを見つめていた時のあの何とも言えない味気なさは、一体どれほどのものであったか、お前には想像がつくだろうか。
歌の林の中で人の心の花の香りを探し求め、言葉の泉の中で物のあはれの深さ浅さを汲み分けてきた、大和言葉の道を一緒に結び合ったお前であれば、激しく吹き付ける初秋の嵐の中で世を落ち延び、日影が傾く西山の山々の幾重もの向こうへとさすらい、初雁の鳴き声も手紙の伝言も届かない南の海の遥か遠くの離れ島に身を置いた私の、その捨てきれない唯一の光が水よりも冷たい、庇(ひさし)から雨漏りのする家に住んでいた頃の私の寂しい心の内を、推し量ってみても大体わかるというものだろう。
だからこそ昔の私は、自分以外の誰かを責めるのではなく、我が身を責め、仏に誓い、世に自分を誓い、自分の悪行が何と情けなく未熟であったかと悔い嘆いたのだ。心の水が浅ければ、胸に宿る蓮の葉がいつ開くか分からないように、たとえ険しくとも闇に包まれたこの世を出るための道に入ろうとして、天へと伸びる真直ぐな竹のような強い願いを一人で立てた。ほかの望みは一切断ち切り、あの麻の衣をまとい、仏に供える花に置く露が散る夜明けに、焼く香の煙が立ち上る夕暮れに、『早く来てくれ』と待ちわびながら、『一字三礼』の作法でありがたいお経を書き写す功徳を積んできたというのに、思い出しても腹立たしいことだ!
私の現世の人生をめちゃくちゃにしただけでなく、私の未来世における悟りの道までも妨げようとする人間のその振る舞いよ。善悪も邪正もここまでだと決めて足を踏み入れたこの道で、手に入れたこの結果なのだから、今はたとえ黄金の大地が崩れようとも、鉄でできた囲いの山が真っ二つに裂け破れようとも、心に思い描いたことをやり遂げずには終わらせない。
真夏の真昼の太陽を自分の目の中に押し込まれるような苦しみであれば、よく耐えることもできよう。しかし、胸に秘めたこの恨みを捨て去ることなど、到底耐えられるものではないのだ! すべてを平等に見るという見方は我が敵であり、区別して見るという見方こそが朕の教えなのだ。仏陀は知性であり、朕は情念なのだ。知性の水が千の池を満たすならば、情念の火は万丈の炎となって燃え上がらせてやろう。
『苦しみを抜き、楽しさを与える』という仏の法は何とも笑わせることだ。本当の真理を断ち切り、道理を捨て去る道こそがここにあるのだ。朕の片足が踏み定めるところでは、柳は赤く、花は緑になり、朕が片方の指で指し示すところでは、カラスは白く、サギは黒くなる。天を死なせ、地を踊らせ、太陽や月を暗くし、川や海を干上がらせてやろう。頑固な石が笑って歌い出し、枯れた草に花が咲き誇り、しかも良い香りを放つようにしてやろう。ライオンは美しい女性の膝のところで大人しくなり、大蛇は子供の座る前でじゃれ合う。
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