さまざまな色とりどりに美しい花を咲かせていたあの野辺も、結局は同じように霜枯れてしまったではないか」
あぁ、私たち人間も最後にはこの草と同じようになるのだ。男性だの女性だの、美しいだの醜いだのといった違いなど全くなく、みんな同じように霜枯れてしまうというのに、どうして緑の翡翠(ひすい)のような美しい黒髪や、花のようにパッと笑う愛らしい顔がいつまでも保てようか。
ましてや、夢を華やかに彩る五感の快楽や、幻のように儚い四季の遊びや楽しみなど、どれが嘘偽りでないと言えるだろうか。
私たちがひたすら励むべきなのは、ただ悟りへと続く仏の道だけだ。「南無仏、南無仏……」と心の中で唱え、世俗への執着をきっぱりと捨て去りながら、西行は一人で道を急ぎました。
其の二
弓張りのような美しい月がだんだんと明るさを増し、お寺の夕方の鐘の音も静まっていく頃、西行は長谷寺に到着しました。途中で話をして驚かせたいような仏道の友人がいなかったわけではありませんが、誰にも声をかけずに、そのまま観世音菩薩のお堂へと上がっていきました。
ただでさえ木の葉が散って枝の間から空が透けて見える木々の間を、夜の嵐が意地悪するように吹き抜けていくと、ハラハラと散る紅葉が暗い空の中で狂ったように舞い上がり、お堂の中に吹き込まれてきて、法衣の袖にフワリとかかるのも何とも物悲しいものです。また、仏様の前にお供えされたお灯明の光がパチパチと瞬き、あたり一面の万物がすっかり闇に包まれていく中にあって、ほんのりと幽かな光を放っている様子も実に風情があります。
『法華経』の第二十五品(普門品)の経文を低い声でしみじみと唱えていると、なぜか普段よりも心がキリと引き締まり、声が体全体にしみわたっていくような感覚を覚えます。だからこそ、ますます誠意を込めてお経を読み進めていくと、空も静まり、大地も静まり、まわりの人々も完全に静まり返っていました。その時間といい、場所といい、すべてが完璧に調和していて、自分の耳に聞こえてくるのは自分自身の声であるはずなのに、「ひょっとすると、仏法を心から喜び讃える天の神や鬼神たちが、自分の声にそっと声を合わせて一緒に経を唱えているのではないだろうか」と疑ってしまうほど、この上なくありがたく素晴らしい声が辺りに響き渡っていました。特にここまで参拝してきた甲斐は本当にありました。きっと観世音菩薩様も、このような時にこのようなお参りをした私の行動を「素晴らしい」と褒めて、必ず受け取ってくださるに違いありません。今夜の心がこんなにも澄み切った清らかさを、何に例えることができるでしょうか。あまりにもありがたく、尊く感じられるので、今夜はこのお堂の片隅に座り込んで、夜が明ける明け方の頃にもう一度お経を読んでさしあげよう。そしてその後に、仏様へお花とお水をお供えしてからここを去ろうと決めました。
西行はすぐに三度お辞儀をして、仏様の御前から少し下がり、影が暗くなっている隅っこに体を縮こまらせて座りました。凍りついた水や枯れ木のように、少しも動かず音も立てず、しずまりかえった様子でじっと座っていました。
夜は深々と、だんだん更けていき、風もまるで眠ってしまったかのようになりました。
右と左に並んで立っていた御灯明は、一つ消え、また一つと消えていきました。
今はただ、とても高いところにある吊り灯籠の、光がぼんやりとして力のないものが、まるで夢のようにぽつんと残っているだけでした。
このお寺の僧侶たちは寒さに震えて、お坊さんたちが寝泊まりする寮に暖房の炉でも囲んで集まっているのでしょうか、人の影はついに最後まで見えませんでした。
言うまでもなくあたりはものすごく静かなので、昼間に焚いたお香の残り香なのでしょうか、今まさに新しくお香を焚いているわけではないのに、あるかないか分からないほどの良い香りが自然と風に乗って流れてくるのが、とてもよく感じられます。
そんな時、いったい誰なのでしょうか、こちらへ向かって歩いてくる足音が聞こえてきました。
仏様に仕えるこのお寺の人が、灯りのろうそくを新しく取り替えに来たのだろうかとじっと見つめていると、お堂の外は月の光がまるで白い霜が降りているかのように明るく見えているその中を、寒さに耐えかねてか頭には何かをすっぽりと被っているけれど、まぎれもなくお坊さんの格好をした人が歩いて近づいてくる様子でした。
特に気に留めようとしたわけではありませんが、なんとなくそのまま見ていると、すぐに月の光が届かない暗い方の影にスーッと身を入れたため、はっきりと顔までは分かりませんが、このお堂に向かって一度まずはお辞儀をし、それから静かに階段を上って中に入ってきました。
お堂はそれほど狭くないのに、灯りはまるで蛍のように小さく、灯りの位置は高く、お互いの距離は離れていました。こちらからはあちらに人がいるとは知らず、あちらからもこちらの様子はよく見えていないので、西行はただ「自分と同じように仏の道を求める心を持った人が他にもいたんだなぁ」と思うだけで、そのままやり過ごしていました。
相手の方はもともと暗闇の中に自分がいることなど気づいていないので、何も気にすることなく、仏様の前に進み出て、とても行儀よくきちんと正座をし、何度も手を合わせてお辞儀をし、一途な真心をつくしているように見えました。
同じ悟りの道を歩む大切な友達であり、その誠実な心の素晴らしさは、こんな夜遅くのお参りからもよく分かりました。
着物の色さえ見えないので顔はなおさら見ることはできませんでしたが、極楽浄土へ向かう旅の仲間なのだから、声をかけてお話ししたいなぁ、名前も聞いてみたいなあと西行は心の中で思いましたが、「突然声をかけるのはよくないだろう。お祈りが終わった後にこそ声をかけよう」と心を抑えて様子を見ていると、相手は数珠(じゅず)を取り出して、シャカシャカと擦り初めました。
針が落ちる音さえ聞こえそうなほど物静かな夜のお堂の真ん中で、水晶の数珠を擦る音の澄み切った響きがとても冴えていて、神聖な雰囲気を醸し出していました。
お経は心の中で唱えているようで、まわりの音がすべて消え去った静けさの中に、ただ数珠の音だけが緩やかに緩やかに響いていました。
その声はあるいははっきりと、あるいはかすかに、あるいは高く、あるいは低く、寝起きの枕元で半分夢心地で霰(あられ)の音を聞いているような、朝霧がまだ晴れない池の水面にスイレンの花がいきなりパッと開くのを聞くような、小川の水が濁ってむせぶ音のようでもあり、雨に濡れた竹の葉が擦れ合う音のようでもあり、山吹の花が咲き誇る山川でカエルが鳴いている音のようだと聞き間違えてしまいそうなほどでした。「ひとつの声の中にすべての宇宙の真理があり、それらはすべて本当の真実から外れていない」と、とても趣深く感じられたので、西行はすっかり感動してその場にじっとしていました。
しかし、自分が決めていたお祈りの回数をやり終えたのか、その人は数珠を片付け、仏様に向かって何度も何度もお辞儀をし、ゆっくりと体を起こして帰ろうとしました。
コメント