初級翻訳・二日物語 第10話

二日物語

ただし、それほどまでにこの浮世の未練をすっぱりと断ち切った身であるとはいえ、昔を懐かしむ情愛は当然のこととして、あまりにも悲しみのやり場がなくて、私を恨んでいるのではないかと見えたものだから、先ほどはあんなふうに少し厳しい言葉をかけてしまったのだよ。もうすでに世間の塵にまみれることなく、仏法の門へと足を踏み入れた者同士なのだから、今さらそんなふうに心を悩ませるようなことは、本当はもう何もないはずではないかね?」
西行は、この上なく優しく、思いやりに満ちた声で女に問い尋ねたのでした。慰められてもなお涙がこぼれてしまうのは、女のサガというものです。あなた様が私を疑われたのも、まったくもっともなことです。もとよりあなた様を恨めしく思う気持ちなど少しもありません。懐かしくお慕い申し上げてはおりましたが、だからといってあんなふうに激しく泣くほどのことでもないはずでした。しかし、あなた様のお声を聞いた途端、胸の中にため込みにため込んでいた涙が一度にあふれ出てしまったがために、あなた様に疑われるような事態になってしまったのです。

そのわけは、ほかでもない娘の身の上についてのことです。深く仏様の教えに通じて、すべての物事が決まる因果の仕組み(宿命業報)を本当に理解しているならば、この悩みさえも思い煩うには値しないと悟ることもできたはずです。しかし、どうしてもそうは割り切れず、頭のてっぺんが焼けただれ、胸の中の血まで凍りつくような思いで、朝から晩まで悩まし続けているのです。西行様、あなたは強いお心をお持ちですが、この苦しみをいったいどのように聞いておられるのでしょうか。聞いてくださいまし。

娘は九条の叔母のところに、養女という形で、叔母が望むままに引き取らせました。しかし、叔母には実の娘もおります。実の母親の口から言うのも何ですが、年齢こそ二人とも同じくらいですが、顔立ちや美しさ、さらには字を書いたり本を読んだりする才能に至るまで、我が娘の方が叔母の娘よりもはるかに優れていました。そのため叔母も、はじめのうちは養女の賢さや可愛らしさと、実の娘の生まれながらの可愛らしさとで、どちらが優れているとも劣ることもなく育ててくれました。

しかし、今年は二人とも十六歳になりました。髪のツヤや、肌の輝き、そして人の心をハッと惹きつけるほどに我が娘が美しく成長したものですから、叔母は我が子のように育て上げたことをすっかり自分の誇りにして、「せめて四位の少将クラス以上の身分でなければ、決して嫁にはやるまい」などと言いふらし、自分の実の娘のことにはかえって全く気を留めないようなありさまで、養女ばかりをもてはさんでおりました。

そんな折、右大臣の息子である某の少将様が、思いがけず我が娘を垣間見初められて恋におちてしまわれたのです。そこからすべての事態が動き出しました。叔母の心は途端に意地悪で凶暴になり、日増しに口うるさくあざけり罵るようになりました。ある時は理不尽にも手を挙げて打ち据え、さらには陰で、まったく関係のない無実の人を使って我が娘を呪うような祈祷(呪詛)まで行わせたというのです。

某の少将様というのは、才知に富んで心根も誠実で優しく、特にまるで宝石を並べたかのように立派な文字を書かれるお方です。ですから、叔母が自分の実の娘の婿にと欲しくなったのも無理からぬことですが、その目論見が思い通りにならず、きらびやかに飾られた我が娘にばかり少将様が目を向けられるのが悔しいという理由で、養女をこれでもかと悪く扱い、いじめるその愚かさと酷さは、昔の優しい叔母の面影がどこにもない別人のようでした。召使いの者たちが見るのさえ気まずくなるようなひどい振る舞いをなさることも度々あると聞きます。

「すでに仏の道に入った私にとっては、娘ももはや我が子ではない」と、あなた様は仰るかもしれません。しかし、そのあなた様のお血筋を引いた我が子は、この上なく美しく、才知に長けて生まれました。しかも、美しく賢く、位の高い立派な人から思われているにもかかわらず、心の底ではその人のことを嫌っているわけでもないのに、育ててもらった恩義という重い鎖に心をねじ曲げられて自分で苦しみ、その上さらに理由のない理不尽な虐待を受けているという、このあまりにもかわいそうな我が子の姿を、あなた様は何とかご覧になってはいただけないでしょうか。

「愛しい執着を捨てて、一切にとらわれない無為の境地に入る」という仏の教えを唱えて、親も子もない修行僧の門をくぐった以上は、仕方のないことだと諦めるほかありません。しかし、その事情を知りながら魂まで煎じつめられるような思いでいる私にとって、毎夜の見る夢も決して安らかなものではありません。こんなことを口にするのは大変恐れ多いことですが、近頃の乱れに乱れきった心からすれば、仏様の教えでさえもあまりにも人間の現実の情からかけ離れた、酷すぎる掟ではないかと、ほんの少しばかりあなた様を恨めしく思うことさえあるほどなのです。

子と言いながら子と呼べず、親であっても親として振る舞えず、世間からは他人として、お互いにまるで知らない顔をして通り過ぎていく。それをひとたび仏門に入った者の作法とするのは、本当に正しいことなのでしょうか。

春の大通りの雨に狂い、小さな橋の陰に行き交うあのツバメでさえ、我が子を思って一日に何百回も巣に出入りします。秋の霜が降りる夜に冷えが厳しくなり、草野が荒れ果てていく頃になると、あのウサギでさえ自分の毛を自ら噛み抜いて綿にし、冷たい風に当たらないように手塩にかけて我が子を守ります。

それなのに、我が身のなんと情けないことでしょう。せっかく授かったたった一人の子どもを、一人前になるまで育ててやることもせず、子ども同士の遊びの中で「片親がいない」と肩を縮こまらせるような辛い思いを、四歳の時から味あわせました。六歳の時には、親が次々と変わっていくような悲しみを頭にいただく過酷な運命を背負わせました。

蒸し暑い夏の日も、雪が散る冬の日も、暑さも寒さも十分に気遣ってやれず、山に花が咲く春の夜明けも、月が美しい秋の夜も、世間一般のお姫様たちが楽しそうに微笑んでいるのとは似ても似つかず、味気なく日々を過ごさせることになりました。そのことだけでもすでに情けなく、親としての甲斐のないことなのに、自分と同じくらいの年頃のよそのお姫様たちを見るにつけても、「ああ、我が子は今どうしているだろうか」と思い出さずにはいられません。木の端や竹の切れ端のように、すっかり感情を失い切った尼の身となった自分のこれまでの暮らしぶりなどは露ほども思いませんが、このように父があり母がいながら、自分の子どもの運命のなんと拙いことか、かわいそうに思わずにはいられないのです。

ましてや、近頃の噂を聞きつけたり、あるいは遠くからその様子を目にしたりすると、心に春の風が吹き抜け、若木のつぼみがほころぼうとするような、恋の山道に迷い込んで苦しんでいる娘の姿は、若い女性の身にとっては命がけの、生きるか死ぬかの分かれ道にも差し掛かっている状態なのです。

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