初級翻訳・亡霊怪猫屋敷 第20話

亡霊怪猫屋敷

ドスンとぶつかった拍子に、曲者は馬の脇腹から下腹にかけて、ななめに鋭い爪を立てたようで、なんと馬は内臓がむき出しになり、血潮をあふれさせながら、苦しそうに最後の息をあえいでいたのです。

馬の上の左近将監めがけて飛びあがり、斬りつけると同時に、馬の下腹を引き裂いたそのすさまじい技にも驚かされますが、もっと驚くべきなのは、その傷が刀や短刀のような刃ものでつけられたものではなく、まるで恐ろしい猛獣の爪で引き裂いたかのような生々しい跡だったことです。

しかし、曲者は猛獣ではありません。
ずっと無言の闇の中だったのではっきりとはわかりませんが、将監の目に映った姿は、たしかに黒装束で顔を隠した人間の怪人だったのです。

「この見事な技には驚きましたな!」
「いったい何なんでしょうな、この傷口は……?」

しかし、どうしてもこのひっかき傷の正体だけは、誰にもわかりませんでした。
そして結局わからないまま、おそらくこれは、大村藩をねらってどこか隣の藩から忍び込んできた、恐ろしい忍術使いの仕業にちがいない、ということになりました。

左近将監はもちろん、竜胆寺家の怪猫・玉が、いよいよ恐ろしい化け猫の本性をあらわして、自分の命をねらっているなどとは、夢にも思っていなかったのでした。
だからこそ、その翌日からは、お供の護衛が一層厳重になったのでしょう。

ここしばらくは特に変わったこともありませんでしたが、やがてそのうち、第二の恐ろしい異変が起こってきたのです。

門前の仇討ち

ある日のこと。その頃にはすでに左近将監は、あの近づくこともできないほど厳重な護衛を引き連れて、山茶花(さざんか)屋敷へ戻ってきたばかりでした。
そこへ、若党(わかとう)の佐平治(さへいじ)が、あわただしく将監の居間へ駆け込んできました。

「だ……旦那さま……た、大変でございます!」
「この臆病者め! また大変か? お前の言う『大変』には、もう聞き飽きたぞ!」
「い、いえ、もう……今度こそ本当に大変なんです! お屋敷の門の前で、腰元(こしもと)風の若い女を相手に、若い侍が切り合いを始めているのです!」
「なに? 若い女を相手に、侍が切り合いを始めているだと?」

さすがの将監も、これには驚きを隠せませんでした。「当藩の者か?」
「いえいえ、遠国の侍らしく……通りがかりに、なんだか親の仇呼ばわりをして、女の方から切りかかってきた様子で……」
「我が家は、大村藩の城代家老の屋敷だ。我が家の門前での切り合いなど迷惑千万、さっさと追い払ってしまえ!」
「じょ……じょ……ご冗談でございます!
なかなかどうして、私ごときにそんな真似ができるものではございません。
双方が真剣で切り合っておりまして……ほら、こうしている間にも聞こえてくるでしょう、あの刃の音が!」
 佐平治が目の色を変えているのも無理はありません。なるほど、チャリンチャリと刀を交える音が聞こえてきます。
「まったく、不甲斐ない奴め! よかろう、わしが行って追い払ってやる」
 すでに屋敷に帰り、普段着に着替えていた石藤左近将監は、着物姿のまま太刀を引っ提げて表へ出てまいりました。
なるほど、門前では旅姿がりりしい美しい一人の娘を相手に、こちらも旅姿の若い侍が、激しく刀を交え合っています。
「刀を収めい! 双方とも、刀を収めい! 拙者はこの家の主である。いかなる意趣、遺恨があるのかは知らぬが、拙者の門前での切り合いは、はなはだ迷惑である。
特別に拙者が仲裁をするつもりもないゆえ、おのおの場所を変えて存分にやるがいい!」
「当家のご主人さまとお見受けする、どうかおすがり申しまする!」
 と、懐剣を構えたまま、若い女の方が声をかけました。
「そこなる者は、わたくし共の父の仇で、柳三之介と申す者にございます。
ただいまご当家の門前にてその姿を見かけ、名を名乗りあげたしだい。
あわれ、お情けをもって、しばらくの間この門前を汚すことを、お許し願えまいか?」
「アイヤ、ご主人! ただいまそこの女が申したとおり、拙者はその女の父を、武士道の遺恨、やむにやまれぬ事情によって討ち果たした者に相違ございませぬ。
しかしそれにはそれだけの理由があること、しばらくこの場において勝負の儀、お許し願えまいか?
名を名乗りあげられたからには、不憫ではあるがこの場で返り討ちにする所存ゆえ……」
「それが迷惑だと言っているのだ。
場所を変えてもらいたい。
拙者の門前が迷惑だと言っているのだ。
さっそく他の場所へ移ってもらいたい」
「それならば、これほどお願い申し上げましても、ご当家の主人さまはお許しくださらないのでございますね。
女の身一つで長年の苦労の末、ようやく探し当てた父の仇にめぐりあい、まるで優曇華(うどんげ)の花が咲いたような思いでいるのに、この場において仇討ちをしてはならぬとおっしゃるのですか?」
「さよう、迷惑なことだ。
お前たちの苦心などは、拙者の知ったことではない。
拙者の門前でさえなければ、それで結構だ」
 自分の門前さえ血で汚さなければそれでいいという、利己主義一点張りの言葉に、女の美しい頬にはみるみる血がのぼってきました。
懐剣を片手に、キリキリと歯がみをしています。
「これは血も涙もないお方……そこなる柳三之介殿に申し上げる。
あまりにも冷酷無情ではありませんか。
わたくしども両名、ここで勝負を決すべきところではございますが、まずこの邪魔者を二人で心を合わせて片づけてから、そのあとで心静かに勝負を決めては、いかがでございましょうか?」
「ごもっともなご意見……合点いたしました」
「では……柳殿」
「しかるば、浪路殿……」
「いざ!」
「いざ、いざ!」
 これには面食らったのが左近将監です。
こんな無法きわまる、馬鹿げた話があるものではありません。
「これは理不尽な! 何をする、迷惑ではないか! 拙者に何の関係がある? おい、危ないではないか!」
 と、右へ避け、左へと避けているのですが、切り込んでくる二人の切っ先がなんと鋭いことか!
しかも、どういうわけか、女の方は左近将監が家の中に入るのを警戒するかのように、絶えず将監の後ろへ後ろへと回り込み、柳三之介と呼ばれる男に、将監を討たせようとする気配さえあります。
しかもまた、その柳という若侍が、飛ぶ鳥のごとく刀をひらめかせて手元に飛び込んできたかと思えば、さっと飛びすさり、そのすばしっこいことといったらありません!
「おい危ないではないか! 拙者に何の恨みがあるというのだ? これは奇妙な、これは剣呑(けんどん)な!」
 と言ったところで、相手の耳に入るわけがありません!
右に避け、左に避け、とうとう将監は門の駒つなぎ(馬をつなぐ杭)のところまで下がってきました。
「よろしい! これほど理非を説いてもわからないのなら、拙者も武士だ、抜くぞ! よいか、抜くぞ!」
 とうとう左近将監も太刀を抜き放ちました。

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