現に、私が通りがかりに沼のほとりの小さな祠(ほこら)を指して、
『あれはどなたの神様でしょう。』
と尋ねたときに、
『道の神様だよ。』
と言って教えてくれたのです。
いまその祠は、沼に向かって草に休む背後の、なだらかな道端の小高くなった小さな森の前にある。
鳥居が一つ、その脇に大きなシュロの木が、五本まで一列に並んで、ぼさぼさとした姿で立っている。
……そう、ここも昔の大きなお屋敷の跡だと思わせるものの一つで、その小高い場所は、もしかしたら大きな築山(つきやま)だったのかもしれません。
ところで、一銭たりともお茶代を置いていくような、のんびりした余裕のなかった私ですが……そうやって薬の行商に歩いていた当時は、世にいない両親へせめてもの供養のため、と思って、なんだか立派なことを言っているように聞こえて嫌ですが、道中、神社やお寺や祠のある場所へは、必ず持ち合わせの薬の中から、何種類かを一包ずつお供えしました。
――お参りする人があって、神様や仏様から授かったものだと思えば、きっと病気も治るだろう。
私も幸せな気持ちになる。
ちょうど私のいた水ぎわに、まるで朽ち木のようになって沼に沈み、その裂け目にカキツバタの影が映り、破れた底を空の雲が往来するような小舟の形が見えました。
それを見捨てて、お堂に向かって立ち上がりました。
お話の要領を急いでいるんですね。
早くお話ししましょう。
……その狐格子(きつねごうし)の戸を開けますとね、どうでしょう……
『まあ、これは珍しい。』
几帳(きちょう)とか、垂れ幕とか言いたいけれど、そうではなくて、黄緑色と青色の段染めになった綸子(りんず)か何かの、中国風の絵の浮き模様を織り込んだものが、窓のカーテンのように、格天井(ごうてんじょう)から床のほうへと引っ張られて覆われている。
これに隠されて、その中の様子は見えない。
もしこれが、もっと奥の方までしっかり張られていれば、絹一枚の裏側はすぐに小さなお宮や神棚ということになるのだろうから、誓って、私は覗き見するつもりじゃなかったのです。
だけど、お堂の中の、むしろ格子戸に近いほうに掛かっていた。
つい何気なく、その端を、きりきりと手元へ引き絞ると、蜘蛛の巣のかわりに幻の織物を織り上げたかのように、かすかな風が脈打つようにして顔をなでたのは、バラかスミレかと思う、いや、それよりもいま思えば、先ほど見た花々の匂いです、何とも言えない、甘く、うっとりするような香りが、ふわっと漂ってきた。」
――学士はハンカチで口を覆い、ちょっと額を押さえた――
「――そこは寝室で、洋風のベッドがあります。
二人で寝られるようなゆったりとした立派なもので、一面に、光をたたえ、なだらかでツヤツヤした、繻子(しゅす)か羽二重(はぶたえ)かと思う淡いトキ色がかった布が敷き詰められていて、ほんの少し古びては見えました。
だけど、それは空が曇っていたせいでしょう。
同じ色の薄い掛け布団がかけられていて、すんなりとした寝姿が、少しふっくらしているように見せるくらい。
肌をすっかり覆っているようにも見えなくて、美しい女の人の顔が、はらはらと黒髪を、やっぱり同じ絹の枕にぴたりとつけて、こちら向きに少しあおむけになって寝ているのです。
寝ているのですが、それが、黒目の大きい両目をぱっちりと見開いている……この目に、ここで殺されてしまうのだろうと、あまりのことにそう思ってしまったので、こちらもじっと凝視しました。
少し高すぎるくらいに鼻筋がすっと通っていて、彫刻か、あるいは練り物か、眉や口元のはっきりと美しい輪郭といい、第一、あの桜色の素晴らしい色艶が――それが――今の、あの電車のなかにいた婦人と瓜二つと言ってもいいくらいだったのです。」もしかしたら、ほんの少しでも髪の毛一本分でも動いたら、その枕や布団、かけ布団のトキ色にも似た、つぼみとも言える顔をした女性は、すてきな香りを放ちながら、胸元から花びらのめしべを湧き上がらせて、まるで満開の花のように咲き誇るのではないかと思えたのだった。
」
四
「私の目がくらんでいたのでしょうか、女性はまばたきを一つもしません。
五分か一時間か、こちらが息さえ止めて見つめている間――そのあまりに整った顔立ちといい、もしかしてこれは白い象牙の彩色された彫刻で、何か特別な理由があってこのお堂の本尊(ご本尊)なのだろうか、と私は思ったのです。
すると床の下……木の板の縁の下あたりで、がさがさ、がさがさと音が鳴り出しました……あちらへ、こちらへと、まるで鼠が何かを引きずっているような音が床に響いて、その音が妙に、こうして立っている私の足の裏をくすぐるかのように、むずがゆくてたまらないので、私は体をモゾモゾと揺動かしました。
――本尊の女性は、まだまばたきもしません。
――そうしているうちに、その音が壁でも登るように這い上がってきたのかと思ったところ、ベッドの脚の片隅に、板の破れた隙間がありました。
そのすき間からイタチがひょっこり顔をのぞかせるように、茶色くて平べったい顔を出したかと思うと、それがモゾリ、ガサリと少しずつ中に入り、バサバサと出てきたのです。けれどもその大きさはまるで三俵法師(※大きな妖怪や大きなものの例え)のようで、形もそれに似ており、毛だらけの丸まった塊で、足があるのか顔があるのか分からない代物でした。
なるほど、大きな鼠でも中に潜り込んでいるのでしょう。
そいつががさがさとベッドの下に入り込んで、床の上をずるずると引きずったかと思うと、女性がかけ布団から真っ白い二の腕をすっと抜いて、私のいるほうへぐったりと投げ出しました。
寝乱れて胸元もあらわになっています。
それを片手で隠そうとしたものの、足のあたりをブルブルと震わせると、「ああっ」と言ってその両手も空を掴み、腰の着物(すそ)をまくり上げて、まるで弓のように体を反らせ、かけ布団を蹴飛ばして、転がるようにして薄い布団を抜け出したのです。
……
私は飛び出しました……
お堂の祭壇から滑り落ちるように駆け下りた時、黒い格子の戸を背にして、女性はその場に斜めに立っていたのですが、なんと、足元には早くもあの毛むくじゃらの三俵法師がいるではありませんか。
女性が白いかかとを上げ、階段をすべり下りると、その後から、ころころと転がるようにそれがまとわりつきます。
さあ、それからは、まるで人魂(ひとだま)に取りつかれたかのように、その毛がパッと赤く色を変え、草むらの中をあちらへ、こちらへと、ただ腰の細い帯(伊達巻)を身につけただけの、あまりにも無防備で色っぽい寝間着姿の女性を追いかけ回すのです。
女性は後ずさりし、背筋をクネクネとねじらせます。
三俵法師は、着物のすそにからみつき、かかとをなめ、跳ね上がり、身震いをします。
やがて、沼のほとりへと追い詰められていくと、足の甲へと這い上がってきた三俵法師に対して、わななきながら身もだえするその白い足は、まるで、先ほど釣竿を持っていた三人の女性の手のように、ちらちらと宙に浮いたかと思うと、するりと音がして帯がほどけ、着物が脱げて草の上にハラリと落ちました。
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