入壕証は、そのへんで落としちゃったんです」
「そのへんで落としちゃったんなら、これから行って拾ってくるがいいじゃないか」
「それが……」
役人は意地悪そうな顔つきで、私をにらみつけている。
しかたない。
なけなしの財布の底をはたくよりほかに方法がない。
私は、非常袋の中に手を入れて、五千元の法幣(ほうへい:紙幣のこと)を引っ張りだした。
それをそっと、役人の手ににぎらせると、
「今日だけ、ひとつお願いします」
「ううん。
たったこれだけか。
これだけでは……」
「ああ出します。
もうこれで全財産なんです」
と、私はさらに三千元の法幣をつかみだして、その役人の手ににぎらせた。
「よろしい。
今回だけは大目に見る。
次は二万元以下じゃ、見逃せないぞ」
「へい」
私は急いで、役人の腕の下をくぐって、防空壕の中に飛びこんだ。
すると、ずんずんずんずずーんと、大きな地響きが聞こえてきた。
もう爆撃が始まったのだ。
ぐずぐずしていると、防空壕の入り口が閉まるところであった。
それが爆撃の始まりだった。
それからというもの、息をつく間もなく、すさまじい爆発音が続いた。
壕の天井や壁から、ぽろぽろと土が落ちて、おびえてふるえる避難した人々の頭の上に降ってきた。
あっちからもこっちからも、黄色い悲鳴があがる。
中には、案外めちゃくちゃ落ち着いているやつもいるもんだと思ったが、私と肩をすり合わせている青年が言った。
「あの、どどーんという爆発音と、あのずしんずしんという地響きと、この二つを無くすことができないものかな。
あれを聞くと、命が縮まるよ」
「それは無理だと思うね。
この重慶(じゅうけい)にいる限り、どうしようもないよ」
と私は言った。
「いや、ぼくはまだ対策があると思うんだ。
もっと防空壕を深く掘るとか、出入口の扉を三重四重にするとか、政府がやる気になれば、もっといい防空壕ができるはずだ。
そう思いませんか」
「それはそうだな」と私は青年に逆らわないように相づちを打った。
「とにかくわれわれは、世界中で最もすぐれた市民だということを忘れてはいかん」
青年の話が急に変わった。
「えっ、どうして?」
「えっ、だってそうだろうが。
世界中で、われわれほど毎日のように激しい爆撃をうけている市民はいない。
したがって、われわれほど、すぐれた防空施設を持ち、そして防空の精神力を持った人間はどこにもいないというわけだ。
つまり我々は、日本空軍のおかげで、世界一の防空文化人なんだ。
そうだろう?」
「あ、なるほど、なるほど。
しかし、ずいぶん長い戦争が続くものですなあ。
もうそろそろ、日本空軍が鉄に困って木製や泥製の爆弾を落としてもいいころだと思うんだが、相変わらず鉄の爆弾を落としとるですから、敵もなかなかのものですなあ」
「いや。
もう今日の爆撃あたりには、木製の爆弾を使っているのかもしれないよ」
「でも、木製爆弾なら、あんなすごい音はしないでしょう」
「そうだね。
今日の爆弾は音が、悪い……」
と言っているとき、大きな音とともに、目の前が火の海になったかと思ったら、私はそのまま気を失ってしまった。
……
今日の日記はこれでおしまいである。なぜなら、私が目を覚ましたのはその翌朝のことだったからだ。そのため、今日の日記としては「気を失ってしまった……」というところで終わりになっているのである。
3
金博士へ送る第三回目の日記。
前の日記から、また十年がたっていた。
二十×年八月八日 晴れ
ラジオは今朝、空が晴れていると告げていた。
十年前のころは、夜が明けて空が晴れていると、空襲があるという予想から、晴天をうらめしく思ったものだ。
しかしこの頃は、晴れていようが曇っていようが、どっちでも大した違いはない。
どんな日でも、飛行機は飛んできて、正確に爆撃をしていくのだから。
けれどもこの頃のように、私たち市民は地下へ潜ったままで、一月に一度も地上へ出て空を見上げる機会すら与えられないとなると、なんだか天気のことなどばかばかしくて、聞く気にもなれない。
食事をすませて、第三区行きの地下鉄に乗り、会社に出勤した。
今朝は、いきなり委員会議である。
今日の議題は、地下都市の拡張工事で掘り出した土を、どこの地上に押し出すかということだ。
うっかり適当な場所に出そうものなら、たちまち敵国の空のスパイに発見されて、こちらの新しい地下都市の居場所がバレてしまうからである。
午後三時、会議の最中に空襲警報が、眠たそうに鳴り響いた。
「またアメリカ軍が爆撃にやってきたか。
ご苦労なことだな」
この頃の爆撃はラジオのアナウンスだけで終わってしまうから、なんだか頼りない。
地下都市の造りが完璧になって、爆弾が落ちても地響き一つ聞こえてこないし、もちろん爆発の音なんか耳にしようと思っても聞こえないのだ。
なにしろ地下都市は、今や百メートルの深さにあるのだから、安心しきっていた。
そんなことを考えていたとき、だしぬけにとてつもない大きな音が響き渡り、同時に、壁がピリピリと震えて、天井に長くて大きなヒビが入った。
「うわあ、めずらしいじゃないか、爆発音だ。
どうしてこんな地下の深くまで、音が入り込んできたんだろうね」
議長でさえ、まだそれほど大変な事態だとは思わず、爆発音を間近で聞いたことをおもしろがっている様子だった。
だが、時間がたつにつれて、一同は、今日の爆撃がたまたま地盤の隙間をすり抜けて深い地下に届いたというような、気まぐれなものではないことに気づき始めたのだ。
爆発音は次第に大きくなり、そして鳴り響く間隔がどんどん短くなっていった。
議長は話し合いをそっちのけにして、ビリビリと震えている周りの壁を見回した。
「どうも今日の爆撃はおかしいぞ。
いやに地底深くまで突き抜けてくるじゃないか。
おい君、対空本部へ電話をかけて事情を聞いてくれ!」
議長は私に命令した。
私はさっそく、対空本部にいる漢(かん)師長を呼び出した。
そして、いつもとは似ても似つかない、爆弾が深くで炸裂する現象について尋ねたのである。
すると漢師長は、周りを気にするようなコソコソした口調で、私にこう言ったのだ。
「それは、いつもと違って当然の理由があるのさ。
今日アメリカ軍が使っているのは『液体爆弾』なんだ」
「液体爆弾だって? そんなものは初めて聞いたが、それは一体どんなものなんだい?」
「つまり、アメリカが深い地下街を爆撃するために新しく作った爆弾で、『A種弾』と『B種弾』の二種類に分かれているんだ。
まず最初にA種弾をどんどん落とす。
すると爆弾は土の中で爆発し、中からA液という液体が飛び出してくる。その液体が、地盤の隙間や土のすきま、通路などを通って、どんどん地中深くへと染み込んでいくのさ。
ちょうど、砂地に大雨が降ると、たちまち水が地中深く染み込んでいくようなものだな」
「なるほど。
そして、そのA液は染み込むと爆発するのかね?」
「いや、A液だけでは爆発しないんだ。
しばらく時間を置いて、ちょうどA液がうまく染み込んだころを見計らって、今度はB液が入ったB種弾が投下される。
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