『五鳳集(ごほうしゅう)』という詩集は、今のところ正確な年代を確かめるのが少し難しいのですが、その中には、細川典厩源公(ほそかわてんきゅうげんこう)の庭で花が満開になった際、「俗に言うところの信濃桜である」といった内容が書かれており、庭の下に咲く「白桜千樹雪(白い桜が千本並んで雪のようだ)」という詩の句が載せられています。
「白桜」と書かれているのは私の予想と少し違いますが、これは必ずしも実際の見たままを写生したものではないのかもしれません。
次に、『亜槐集(あかいしゅう)』という歌集には、侍従大納言の実隆卿(さねたかきょう)のところから、「しなの桜」の返り咲きの枝を添えて、
「待つけん人の見がたき宿なれや 年に稀なる花咲きにけり」
という一首を贈られたという話が出てきます。
この実隆卿は、先ほど日記を紹介した近衛政家と同時代の人ですが、この返り咲きの花は、たぶん彼自身の家の庭にあった木のものだったのでしょう。
『実隆公記(さねたかこうき)』も今では本になって読むことができますから、詳しく探せば、他にも手がかりが出てくるかもしれません。ただ、私に時間がないので、まだすべてに目を通せてはいないのです。
畔田翠山(くろだすいざん)の『古名録』には、信濃桜の項目があって、先ほどの二つの詩歌集を引用しています。しかし、他のいくつかの植物図鑑や、桜の種類をまとめた本を調べてみても、どうもこの名前が書かれているものには出会えません。
言葉が時代とともに忘れられてしまったことは間違いありませんが、それが「この種類の木が減ってしまった」あるいは「絶滅してしまった」ことを意味するものではないと、私は考えています。
植物には特に多いことだと思いますが、人間というのは、よく知らない外国や遠くの土地の名前を、少し珍しい種類のものに勝手に付けようとするものです。
「伊勢桜」や「鎌倉桜」といった名前の例を見ても分かるように、もともとその土地にしか無かったという意味ではなく、むしろ「その方角から持ち込まれてきたもの」という程度の意味で呼ばれていたのかもしれません。
しかし、少なくとも「信濃桜」は、普通の山野に生えているものとは少し違った特徴を持っています。
どこまでが人の手によって大切に育てられた結果で、どれがもともと持っていた性質なのかは決めかねますが、そこには選別があり、ひとつの「元の木」から増やしていった過程があり、人の助けを借りて遠くまで旅をしてきたことだけは想像できます。
そうして、他にこの名前を名乗るような別の地方もないとすれば、やはり信州はその故郷のひとつとして考えなければならないのです。
人間、特に年を取った者の遠出は、これから当分難しくなるでしょうから、花の「絵」を描いて残すということが、私たちには大切になってきます。
植物学者の記録はあまりにも几帳面すぎて、頭の中に美しい風景を思い浮かべるのには向きません。
どうか、そんなふうに花の絵を描くことに力を入れてくれるような、三熊花癲(みくまかてん ※江戸時代の画家)のような仲間を見つけたいと願っています。
さて、少し話がそれますが、ついでにもう少し桜の話をしましょう。
23、4年も前、吉野作造君がわざわざ仙台から取り寄せたと言って、その土地の名物であるしだれ桜の苗を二本贈ってくれました。それがちょうど今、この窓の外でこちらを向いて立っています。
何度も植え替えたので育ちはあまり良くないのですが、それでも二、三年前からぽつぽつと花を咲かせるようになり、高さはもう6メートル(二丈)ほどになり、枝の先は地面に届くほどです。
仙台にはこの木が見事に育って林のようになっている公園もあり、皆それを「仙台の桜」と呼んで納得していますが、よく考えてみると、その歴史はまだ完全には明らかになっていません。
もしかすると、ここへも最初は京都などから誰か熱心な人が運んできたのではないでしょうか。
調べてみる方法は必ずあるはずです。
吉野君がこの桜の苗を贈ってくれたきっかけは、たしかその前の年の春の盛りに、二人で一緒に山形の市へ行って講演をしたときのことです。旅館の二階から見た隣の庭が、小さな桜の林でちょうど満開でした。
花の美しさがよく似ていて、どちらも若木だったので、誰に聞くこともなく、私たちはこれを「仙台から来たものだ」と勝手に決めてしまいました。
そうして、「自分の家にも植えてみたいね」といった話をしたのだと思います。
花に産地の名前を付けるとき、この程度の推測で呼ばれていることは意外と多いのかもしれません。
ところが最近になって初めて知ったのですが、秋田県の角館(かくのだて)という武士の町を歩いてみると、ほとんどの屋敷に一、二本の大木がありました。花のない時期だったので確認はできませんでしたが、木の様子が仙台のものととてもよく似ていて、木の古さはこちらも負けてはいませんでした。
もし単に「樹齢」だけで本家か分家かを決めるのなら、実はこっちから仙台へ送ったのではないか、とさえ思えてきたのです。共通の先祖というものを、どうしても改めて考えなければならないのは、なにも「信濃桜」だけの問題ではありません。
物と名前の結びつきが離れたり、あるいはそれぞれの形が変わっていったりすることも、無視できない大切な要素です。
信濃桜などは、ただそう呼ばれなくなっただけですが、場合によっては名前だけが別々に一人歩きしているものもあります。
これも今から十数年前の春のことです。対馬の北の端の村を歩いていて、山の桜が満開なのを楽しんだことがありました。その時、この木を「タイサンボク」とこの土地では呼ぶと聞いて、私はただ「泰山府君(たいさんふくん)」という言葉がなまったものだろうと早合点していました。
ところが、森口多里君の故郷である陸中水沢の『町の話』という本を読んでみると、五百里(約200キロ)近くも離れたその場所にも同じ名前の桜があり、どうやら物そのものは双方で別のもののように思われました。
『恰顔斎桜品(こうがんさいおうひん)』などの記述によると、いわゆる「泰山府君」というのは「虎の尾」という花の一種であるとあり、確かに対馬で私が目にした山の桜とは同じものではありません。
したがって、私の考えを「誤解」と決めつけるのも、また疑わしい話になります。
『古今要覧稿(ここんようらんこう)』の桜の部には、屋代弘賢の説として次のようなことが述べられています。
「泰山府君はもともと対馬から出たものである。あの島ではこれを『対山木』と呼んでいる。宗対馬守の息女が太田摂津守のもとへ嫁ぐ時、この木を携えてきて、千駄木の別邸に植えた。そのため太田家では今も『タイサンボク』と呼んでいる。ところが、桜町中納言が花の寿命を延ばそうとして『泰山府君の祭』を行ったという古い話にちなんで、物好きな人々がこの漢字をあてたのは、かえって後世のこじつけであろう」といった内容です。
しかし、それならば元の種類ははっきりしているはずなのに、なぜ「虎の尾」のような、少し特徴の多い花にこの名前が移っていったのでしょうか。
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