初級翻訳・北極のアムンセン 第1話

北極のアムンセン

一 地球の両極

地球は、自分自身でくるくると回りながら、大きな太陽のまわりをぐるりと回っています。
この地球の回転について、たとえばコマのようにまん中に一本の棒が通っていると想像してみてください。その棒の両端が、それぞれ北と南になります。
地球の上で、その北側を「北極」、南側を「南極」と呼んでいます。
地球が回るとき、いつも横腹を太陽に向けるような格好になるため、回転の軸の両端にあたる北極と南極のあたりは、太陽の熱があまり届かず、一年じゅう凍えるような寒さの地域になっています。
気温は氷点下何十度という世界で、あたり一面、氷と雪にすっぽりと覆われています。
そのうえ、地球の回転の軸が太陽に対して少し斜めに傾いているため、一年のうち半年は太陽がまったく昇らない真っ暗な夜が続き、残りの半年は、地平線のすぐ近くに太陽がぼんやりと見えているだけの、うす暗い昼間が続くのです。

この両極の地が一体どんなところなのか、それを明らかにしようと、昔からさまざまな探検が計画されてきました。
たとえ人間が住むことのできない極寒の地であっても、地球上にまだ誰も知らない場所が残っているというのは、地球の主役である人間にとって、とても悔しく、恥ずべきことでもあったからです。
とりわけ、両極の探検には、厳しい自然を乗り越えて打ち勝つという喜びに加えて、「地球の回転の軸のてっぺんに立つ!」という大きな楽しみがありました。

こうして多くの人たちが挑戦を重ねた結果、今では両極の様子も、だいたいのことが分かってきました。
南極には大きな大陸があると考えられていて、高い山脈や広大な雪原、巨大な氷河があり、氷に囲まれた海岸線の様子も半分ほど明らかになっています。
一方、北極のほうは海になっていて「北氷洋」と名づけられていますが、その真ん中の海面はまるで陸地のように、見渡すかぎり氷と雪の原野が広がっています。

この両極の探検で、最も素晴らしい功績を残したのが、ロアルト・アムンセンという人です。
アムンセンは、一八七二年にノルウェーで生まれました。少年時代から「いつか探検家になるんだ」と決めていて、スキーの練習をしたり、野外で生活して体を鍛えたりしていました。
それから、本物の船乗りになって航海術も身につけました。
その後、本格的な学術探検旅行に参加して知識を深め、大学では海洋学や気象学、磁気学といった学問まで学びました。
こうして準備を整えたあと、彼はその人生のすべてを探検という仕事に捧げたのです。

彼の探検の功績は数え切れません。
まず、大きなものとして「北西航路」の開拓があります。
北西航路というのは、ヨーロッパの北西側、グリーンランドとカナダの間にある島々のあいだを通り抜け、アラスカの海岸からベーリング海峡を抜けて、東洋へ出るための近道のことです。
北氷洋に面した島々のあいだを通るこのルートは、昔から探検されてきましたが、まだしっかりと切り開かれてはいませんでした。
それをアムンセンは、たった四十七トンしかない小さな船に乗り、五人の仲間を連れて、見事に通り抜けたのです。
そして、この航路を開拓する間に、地球の磁気に関する貴重な研究も成し遂げました。

次に、「南極探検」があります。
このときは、イギリスのスコット大佐が率いる大探検隊との競争になりましたが、アムンセンは本隊を基地に残し、四人の仲間と共に、犬ぞりを使って見事に南極点へたどり着きました。
多くの人たちが挑んだ南極への到達は、一九一一年十二月、アムンセンによって初めて達成されたのです。

その次には、「北東航路」の探検があります。
これは、北ヨーロッパから北氷洋を通り、シベリアの海岸づたいに進んで、ベーリング海峡を経て東洋へ出る航路です。
このルートも昔から探検され、すでにノルデンショルドという人が通り抜けてはいましたが、アムンセンは八百トンの船に九人の仲間を乗せて進み、北氷洋の流氷を切り裂きながら、ベーリング海峡を通ってアラスカへと到着しました。
この航海には丸二年以上の時間をかけてゆっくりと進みましたが、その間にシベリア沿岸の地理や気候、磁気などを詳しく調べ上げました。

しかし、アムンセンが何よりも心を向けていたのは、「北極探検」でした。
彼が南極探検に行ったのも、実は北極探検の準備をしていた一九〇九年四月に、アメリカのピアリー大佐が「初めて北極に到達した」と世界中に発表したため、急きょ北極をあきらめて南極へと向かったからなのです。
ところが、実際にはピアリー大佐は北極のすぐ近くまで行っただけ、というのが確かな事実のようです。
アムンセンはすでに北西航路や北東航路を通じて北氷洋のことを十分に研究しつくしていましたから、どうしても自分の力で北極まで行ってみたいと強く思っていました。
そして彼は、今度は「空を飛んで」北極へ行くことを思いついたのです。
北極は、文化の進んだヨーロッパやアメリカの国々から近い場所にあります。そのため、この極地への探検は早くから盛んになり、十九世紀から二十世紀にかけて、大規模な挑戦が何度も繰り返されることになったのです。その上、飛行船や飛行機ができて空を飛べるようになってからは、これが多くの探検家たちにも利用されるようになりました。
一九一四年には、ロシアのナグルスキーが飛行機で北氷洋の流氷を調査しましたし、一九二四年には、チュクノフスキーが極地方面を探検飛行しました。
アムンセンも飛行機による探検を早くから考えていて、一九二三年六月、アラスカから北極へ飛行しようと試みましたが、これは失敗に終わりました。
彼はそれでもその計画をあきらめず、各方面を説き回って、賛成者や後援者、協力者を得て、壮快でありながらも危険な北極飛行を決行することにしたのです。

二 大氷原のただ中

ノルウェーとグリーンランドとの間の北方に、スピッツベルゲンという群島があります。
この群島は北緯八十度近くの北方ですが、暖流の影響があるため、そこまでの航海はそれほど困難ではなく、たびたび北極探検の基地となりました。
このスピッツベルゲンのキングス・ベイという港で、一九二五年の五月、アムンセンの一隊はいよいよ北極探検飛行の準備を整えました。
飛行機は、ドルニエ・ワール型の二十四号と二十五号の二機で、ともに三百七十五馬力のエンジンを積んでいます。
二十五号機には、アムンセンが機長として乗り込み、ほかに操縦士と機関士が一人ずつ。二十四号機にも同じく操縦士と機関士が一人ずつ乗り込み、機長はエルズワースというアメリカ人でした。
このエルズワースは、シカゴの裕福な家庭の生まれで、アムンセンより八歳年下ですが、アムンセンの探検事業に深く共鳴し、ついには彼にとって最も頼りになる協力者、そして旅の道連れとなったのです。

こうして、この二機の水上飛行機は、五月二十一日、午後の五時。多くの人々に見送られながら、キングス・ベイ港内の基地から、二十五号機に続いて二十四号機が飛び立ちました。
北極まではおよそ一千キロ以上ありますので、三千キロの飛行に必要なガソリンと、途中で動けなくなった時のために、全員六人分の三十日間の食料が両機に積み込まれていました。

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