初級翻訳・卵塔場の天女 第6話

卵塔場の天女

まるで三保(みほ)の松原から、松の枝ごと霞(かすみ)にたなびきながらやってきたかのようでしたよ。
……すぐわきの築山の池に、鶴がいたっけなぁ……ねえ、姉さん。
……運動場で売っていたふかしたてのお饅頭(まんじゅう)が、美味しそうでたまらなかったけれど、お金がなくて買えなかったね。
天人の前に、お腹をすかせた餓鬼(がき)がいたらおしまいだよ」
そう言って苦笑いしながら、八郎はちょっぴり涙ぐみました。
橘八郎は、故郷での初めての舞台で、能の『羽衣(はごろも)』の一曲を演じようとしているのでした。
話の話題がふと変わりました。
――
何の前触れもなく、お悦(えつ)がふと、
「……おひささん……」
と、こう切り出したのが私の耳に飛び込んできました。
「……お久さんからお手紙が届いたんでしょう、お兄さん」
それは私たちが、ちょうど立ち上がろうとした時でした。
火鉢の前で中腰になっていた膝がグラリと揺れ、八郎の顔が少し暗く影ったように見えました。
彼は沈んだ声で、
「……届いたよ、届いたけれどね」
と言いました。
「いいえね……この春頃だったかしら、ふらっとお店に見えられてね、お兄さんの今の住所を教えてほしいって聞いたんですの。
なんでも十何年ぶりとかで、この土地へ帰ってきたって……長い間、北海道の何とかっていう、ずっと奥の炭鉱のほうにいたそうですよ」
「僕は返事なんて出さないさ」
と、彼は少し冷めた調子で言いました。
「そうですか……」」
「で、どんな様子をして……いや、聞くまい、冷たいやつだと思われて、姉さんに恥ずかしいからね」
」
「私は別に何とも思いませんよ」
」
「畑下ってどんなところだい。
村なのかなあ」
」
「ううん、町ですよ。ずっとはずれの方ですけれど……じゃあ、会わないの?」
」
「さあ、どうしようかと思ってさ――槙村さん、聞いていないふりをしていてくださいよ」
」
「ちょっと、失礼させてもらうかな」
 私は言った。
「とんでもない! いずれ先生には改めてお話ししますけれどね――それでだな、姉さん」
」
「お兄さん、構わないじゃありませんか。どっちだって、会ったって……会わなくたって……」
」
「いやあ、その『どっちだって』があるから、実は困っているんだ」
 自分の額を下に向けて、そこに手をあてた。
「今度ここへ来るにも、ずっと途中から気になって仕方がなかったんだ。
――普段は新聞なんて読むガラじゃないから、今回の私の舞台のことも、向こうは知りやしないだろう。
お風呂屋さんや髪結い床のうわさ話にしても、桜の咲く華やかな歌舞伎と違って、能なんて松風の音くらいの静かなものだからね。
それに、もし聞き知って今ここへ訪ねてきたとしても、『留守です』と言えばそれまでだし……。
なにせ私の仕事が仕事だから、そこはたくさんの人たちとの間に壁ができる。
楽屋口で追い返すのも簡単なことだけど、そうかといって、実はね……会いたくないわけじゃないんだよ」
」
「じゃあ会いなさいよ、どうしてそうぐずぐず言うのさ」
」
「ところが向こうは親類縁者が大勢いるんだ。
第一、旦那さんがいるだろう。
旦那さんから始まり、その旦那さんの兄弟、その甥っ子に姪っ子、またその兄に娘、兄の子供に弟のお嫁さんまでって、もううじゃうじゃと……。
こちらが何者なのか、どんな仕事をしていてどんな家柄なのかも向こうは知らないわけだし、こっちにとっても先方はまるで他人のようなものだからさ。
なんといっても、人の奥さんに会うとなれば、その旦那さんにちゃんと許可をもらわなきゃならないだろ……」
」
「そんなの、お兄さん、大した問題じゃないじゃありませんか」
」
「いや、ところがね、義理でもいいからと『お目に掛かりましょう』なんてやって来た日には――」
 細君が何か言いかけると、
「いやだ、いやだ、絶対いやなんだよ、あんな連中に会うのは!」
 と、まるで子供が駄々をこねるような口調と態度で、
「博徒だろうが粗暴な人間だろうが、喧嘩の相手なら選ばないけれど、親類づきあいってやつは大嫌いなんだ!」
」
「あんなふうに言うんだよ」
」
「ちょっと言い方が激しすぎたかもしれないがね。
……手紙の様子だと、長女がこの土地でお嫁に行ったそうだから、そのお嫁さんだとか、あるいはその旦那さんなんかが、悪い冗談で新聞でも読んで――『お風説はかねて(うわさは以前から聞いておりました)』なんてやって来られた日には、そりゃあ大変だ」
」
「じゃあ、お兄さんの好きなようにすればいいじゃない」
だが、お悦は少しも投げやりな様子を見せない。
「お久さんだけ、たった一人だけなら……一人だけなら会ってもいいんじゃないの、どう?」
」
「さあ、そんなふうにうまくいくかなあ……。
内緒で呼び出したりなんかして、どんな変な弁護士(三百代言)みたいなやつに引っくくられるかわからないからね。
この土地は人の気性が良くないんだからさ」
」
「わかりました」
ふきこぼれそうになった鉄瓶をトンと音を立てて下ろし、
「私に任せておきなさいよ」

 翌朝――今朝は、細君が朝の八時に旅の宿までやって来た。
小さく畳んだ風呂敷を手に持ったまま、
「お兄さん、お久さんは家にやって来ますよ。
時間ははっきり決めていないけれど……」
」
「相変わらず仕事が早いなあ。町のはずれだというのに、もう行って来たのかい。
ものすごく素早い、まるで女天狗(めてんぐ)みたいだ」
口ではそう言いながらも、八郎は彼女の親切さに心から頭を下げた。
」
「一人だけかい……?」
彼女が黙ってうなずくのを見て、
」
「で、旦那さんはいなかったのかい?」
」
「いましたとも! いたって構やしないわよ。
……会いたくないものは会いたくないんだから」
」
「うまく言いくくることができたんだな、いやはや大した外交家だ。
やり手だな、まったく辣腕(らつわん)だ」
八郎は痩せた肩をグッと張りながら、
」
「ほかに、誰も……?」
」
「そのお嫁に行った娘さんが里帰りしているんですって。
でも、トラホーム(目の病気)でちょっと目を悪くしているそうよ」
八郎はまたさっと眉を曇らせた。
もっとも、外へ出てみると、小川のほとりの色づいた紅葉(もみじ)ですっかり晴れやかな景色になっていたが。
やがて、公園の方に冷たい時雨(しぐれ)が降り始めたのだった――

 ところで……赤い魚、青い魚、そして黄色い魚介を手にいっぱいに持って、まるで三頭のイルカが渋柿をぶら下げているような格好で、傘の辻から紅屋の店へと入っていったのだった。
私は、法然の頭のような老主人をはじめ、店にいる人たちのほかに、なぜか、「いやあ、昨日は――」とその店の仕切りの暖簾(のれん)をくぐる時、隅の棚にあるあの福助の人形に、思わず声をかけそうになった自分にあとで妙な気がした。
なぜなら、額の出っ張ったその人形が、くりっと目を動かし、扇子をかざして会釈をしてくれたように思えたからである。
」
「やあ、雪代(ゆきしろ)さんかい」
と八郎が声をかけたのは、とても上品で優美な婦人だった。
彼女は、菊の花の奥にある台所口から入ってきたお悦の手から、魚を入れるビクを受け取った。

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