彼らは愛情のさなかにあっても、貪欲に裸の心を探り合い、己の理知のうるささに、むしろ当惑するのだった。そんな恋の中にいると、まるで試験台に寝かされて、手術を受けているような恐怖が消えないこともあった。澄江もまた、同じ思いをしているだろうと彼は思った。今にも、いつか恐ろしいことが起きそうだと……。
卓一は、逃げ場のない力に追い詰められ、次第に澄江から離れながら、澄江を蔑む多くの時間を日々の友にするのだった。一途に憎む思いばかりが、彼にとって自然なものとなっていた。恐らく澄江もまた、愛し疲れ、憎み疲れたに違いなかった。そして澄江は故郷へ帰った。卓一は風の便りにそれを知った。もはや四年の歳月が流れていた。二人はもちろん、音信を交わしたこともなかった。
「野々宮さんも、若いですね」
木村重吉という編集部員が、新編集長に親しみを見せようと笑いながら言った。
「まるで二十歳の青年のように、恋に熱くなっている。げっそり痩せてしまいましたからね。複雑な事情は知りませんが、僕たちはこれを野々宮さんの『深刻なる恋愛』と呼んでいるんです。あいにく事が奥さんにバレて、その方の荒れ方も並大抵ではないそうですよ」
仕事中の一人の編集記者が、ペンを握った手を休めずに、鼻歌のような呟きを漏らした。
「若いよ」「とにかく、小説の中の登場人物さ」
その野々宮は、窓際にぼんやりと立って、外を眺めていた。
野々宮は三十八歳だった。
そして卓一は三十歳だった。
野々宮の後ろ姿を見ているだけで、彼がすっかり衰え、不健康な状態にあることが痛いほど分かった。
人生を鼻歌まじりに流れるように生きてきたはずなのに、赴任して早々に恋にやつれた人物に出くわすとは。
それだけで、もう心が重くなった。
卓一はペンを置いて立ち上がり、彼もまた窓に寄りかかって外を眺めた。
下にはこの街の目抜き通りが走っている。
人も自動車も動いてはいるが、東京の活気あふれる賑わいには、とうてい比べものにならない、寂れた白さが満ちていた。
雪国の長い冬が、訪れようとしていた。
街には、冬の間中続く灰色の空が、すでに低く覆いかぶさっていた。
青空は、もうこの土地を立ち去ってしまったのだ。
来ない方がよかったな。
と卓一は思った。
俺が新潟へ流れてきたのは、自分を捨て去るつもりだったからだ。
それなのに、結局は恋心も残っていたのだ。
そう言われても、どうしようもないことではないか。
恋が俺を休ませてくれるはずなどないのに。
俺にとって必要なのは、恋へのあこがれだけなのだ。
あこがれの中に生きる者は、現実の世界では、死ななければならないものだ。
それを知りすぎていながら、俺は少し、現実に甘えすぎていたようだ。
本当の現実に生きるためには、あこがれが持つ現実性を、捨て去らなければならないだろう。
俺の一生は、浪費なのだ。
そして現実を殺すこと以上に、ひどい浪費はない。
その強欲さこそが、せめてもの俺の生きがいらしい。
その朝、道を歩いていると、向こうに見えた女の姿が、ふと澄江のように思えた。
そんな軽い不安は、この町の駅に降り立ってからというもの、歩くたびに彼につきまとっていたのだ。
彼は路上に釘付けになった。
しかし次の瞬間には、もう振り返って、細い道へと曲がっていた。
彼は自然と走っていたのだ。
彼の意識の中には、同時に、かなり冷静な自分への批判もあった。
逃げ出す自分の姿が不快だった。
しかし、もうどうしようもなかった。
彼は寺町の墓地の中まで来てしまっていた。
彼は思わず、心の中に広がる荒野を見るような気持ちだった。
一途な悲しさが胸を流れた。
孤独だった。
その孤独の安らかさだけが、唯一理解できるものだった。
それでいいのだ。
彼は静かにつぶやいた。
濡れた墓石が、雑然と並んでいる。
小さくて、薄汚れていて、惨めで、冷たそうだった。
それぞれの石の表情は、どれも冷たく孤立していた。
それが卓一の心を安らかにさせてくれるように思えた。
その連想と安らぎは、どこか不器用なものだった。
まるで子供たちが下手くそに積み木遊びをしているかのように。
しかし彼は、自分の安っぽい感傷に腹を立てる気にもなれないほど、やるせない落胆の中へ沈み込んでいた。
彼は墓に腰を下ろして、あたりの静寂にしばらく浸る甘さを愛した。
結局、俺に必要なのは、澄江その人ではないらしい。
卓一はそう思わずにはいられなかった。
澄江はきっと、俺の心に仕掛けられた魔法の玩具のひとつなのだろう。
俺の一生の退屈は、この玩具なしには生きられないのだ。
そして俺に必要なのは、不可能な現実と、あこがれだけであるらしい。
そしてまた、この物思いこそが、俺の一生の子守歌なのかもしれないと彼は思った。
「数年前のことですが、三遊亭喜楽という落語家が、この町へ興行に来たのです。社へ挨拶に来て、僕とこの部屋で会ったのですが」野々宮が卓一のそばに歩み寄って、話しかけた。
「僕の顔をじっと見つめながら、突然大きな声で、『あなたは三十五歳でしょう』と訊ねるのですね。
『そうです。三十五歳になりますが、どうしてそれがあなたに分かるのですか』と訊き返したのです。
あの人は、高座の姿を見ただけでは予想もつかないことですが、非常に内気な人なのですね。
ふだんは、いくらか顔を伏せるようにして、吃りながらでしか喋ることができないような人なのです。
僕の反問に遭うと、見るも気の毒なほどしょげ返ったのですね。
しかし、やがて語り始めました。
『私も実は三十五歳になるのです。この歳になってから、自然に気持ちが沈み込んで、四方を暗闇でふさがれたような自分の心に、ふと気づいてしまったのです。理由といって、これと思いつくこともなく、ただ心の重さだけがどうしようもないものですから、これはもう年のせいだと思い込まずにはいられなかったのです。何か宿命のようなものを、毎秒感じさせられているような、重い足音が聞こえてならない思いなのです』と言うのですね。
僕の顔をひと目見ると、かねがね怯えている翳があったので、この人も三十五歳だという確信が、閃くと同時に叫んでしまっていたのです、と気の毒なほど悲しそうに言うのでした。
新潟に興行の間、毎晩僕を訪ねてきて、しきりに二人だけの時間を持ちたがる風でしたが、その友情は今も続いているのです」旅興行でこの町の近くまで来たときはもちろんですが、東京の本興行のひまをぬすんで、わざわざ新潟まで、僕を訪ねずにいられなくなるときがあるらしいのですね。あの人は酒の飲めない人ですから、番茶を飲みながら、夜が明ける頃まで、ひとりで喋り続けているのです」
三遊亭喜楽の落語は、卓一も数回聞いた覚えがあった。芸の本質から遠くかけ離れた邪道の人だと信じていたので、その名前には、ただ軽蔑の念がつきまとうにすぎなかった。
「あの人が、女と心中のつもりで、佐渡へ渡ろうとしたことがあったのです。僕に会わず、新潟を素通りして行くつもりだったそうですが、新潟へ着いた日が運悪くひどい吹雪の日で、船が出ないのですね。宿をとって、くすぶっているうちに、僕に会う気になったのだと言っていました。
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