初級翻訳・吹雪物語 第54話

吹雪物語

むしろ、安らかにさえ思えたのです。
卓一は歩き疲れて、丘の上の雪のなかへ腰を下ろしました。
外套のまわりに敷き詰められた雪も、吹き荒れる風に巻き上げられて舞い踊り、風の悲鳴が耳を掠めては暗闇の奥へと駆け去っていきます。
卓一の心は安らかでした。
吹雪の丘に座り続けて、冷たい一夜を明かしたとしても、そこには冷めることも、衰えることもない何かが満ちていて、心の中に広がる静寂がひたすら豊かになっていくように感じられたからです。
雪の上に長く寝転んでしまいたいとさえ思いました。
大自然の無情さが、なんとまあ、惨めなまでに無力なことでしょうか。
どんなに苛酷な無情さも、卓一の安らかな思いを乱すことはできないのです。
なんと充実した気持ちなのでしょう! そして、これは一体何が与えてくれた力なのでしょうか。
卓一の安らかな心のなかには、さっき澄江が残していった安らかな笑顔が静かに息づき、そして憩っていたのでした。

けれども翌日、卓一はそれまでとは全く違う、惨めな心の訪れを知らなければなりませんでした。
恐怖と不安。
そして苦痛。
どうすることもできません。
歓喜の高さが、そのまま恐怖と不安の高さへと、たちまち変わってしまったのです。
そして、その恐ろしい事実だけを、理屈もなしに突きつけられているばかりでした。
なんと苦痛に満ちた暗闇でしょうか。
それは失恋の苦しさと全く同じものでした。
苦痛に満ちた二週間が、こうして過ぎていきました。

「どうして君は、毎日会おうと言わないのだろう」
卓一は苦痛に耐えかねて、そう口にするのでした。
「君は怖くないのかい。そして不安ではないのだろうか。寂しくはないのだろうか。僕に不安のない時間は、君に会っているときだけだ。別れた瞬間には、もう苦痛が始まっている。君に会えない一日は、不安のせいで当てもなく街をさまよわずにはいられないんだ」

卓一にとって、孤独の時間を過ごすことが最も大きな苦痛でした。
不安のせいで狂い出してしまいそうな心細さに襲われるのです。
夕暮れが、何よりも切ない時間でした。
夜が深まると、いくらか心は落ち着きます。
夜が更けて、もう澄江に会える見込みが消えた時間がくると、どうにか気持ちもおさまるのでした。
その時間が訪れるまでの間は、ただわけもなく友達の顔が恋しくなりました。
ただお喋りをしているだけで、いくらか不安が紛れるのです。
身近に他人の存在を意識することができるだけでも、とにかく二人だけの切迫した状況から一時的に解き放たれ、苦痛が薄らぐような気がしました。
だからこそ、他巳吉の来訪が待ちきれない思いがしたのでした。

「なんとも巧いセリフを言ったものだね。ええ、卓一さん。ほれ、殺し文句さ。あんたと一緒なら、なんて言ったんだろうね。たとえ火のなか水のなか、か。お前とならば海山千里、ということもあるね。違いない。あんたは鬼界ヶ島の灯台守だ。わはははは。いやはや、聞かされたよ。あんたと一緒なら島流しにでもなりたいかね。わはははは。この道ばかりは昔からうまいことを言わせるよ。とんだ濡れ場で目の毒、耳の毒、木石ならぬ身の大敗北だ。いや、日本の灯台も、あんたの目の玉の黒いうちは灯りの消える心配がなくて、大いに心丈夫というものだ」

と、他巳吉はひやかすのでした。
しかし、他巳吉の訪れも、澄江の姿が現れてからは、急に活気づいていました。
「いよいよ天下の形勢は穏やかならぬ雲行きだ」と、他巳吉は大声を張り上げて入ってくるのですが、澄江の姿を認めることができる日は、さらに活気づいて大きな声を出すのでした。
「やあ! 俺の『いろをんな』がいるぞ」と。

雪が毎日降り続いていました。
汽車の不通。ラッセルの運転不能。出水。電信の故障。家屋の崩壊。そして雪崩。
雪国の新聞は、特殊な報道で忙しくなります。
しかしニュースも、あらゆる交通の故障と一緒に遅延しがちになるのでした。
そのころ、議会の形勢は険悪を極めていました。
そして卓一の毎日の帰宅が、遅くなってしまうのでした。

「女の子には男の子。男の子には女の子さ。世の中は男と女だ。後にも先にも、つまるところ、それだけのものだね」と、他巳吉は澄江に言いました。
「年頃の男女がつくねんと一人でいるほど、この世の中に無駄なことはないものだ。そうだろうがね。この部屋にしたところで、あんた……」あんたが現れるまでは、ここは北極みたいなものさ。
俺もね、いやはや、動物園の白熊だったよ。
所詮、世の中は男と女の道に尽きるものだ。
ほら、あれはなんて言ったかね。あの四角い箱さ。ペアノかね。あのペアノさ。
しかしあれは、頭痛がしてくるような道具だね。俺の苦手なものだ。
あれもあんた、ただ飾っておくわけじゃあるまい。分かってはいるがね。
所詮、音楽っていうのは色気のものだ。その道の楽しみのためにあるのさ。
いやはや、あんたのペアノも、松虫や鈴虫、猫の声なんかと同じようなものだね。
さて、そこなんだ。
「合わせものには離れもの」といって、ここに古人の戒めがあるね。
ここに、男女が仲良くする一番大切な秘訣があるんだ。
おや。あんたはもう、何か考えたことがあるね。ちゃんと顔に出ているよ。
いやはや、どうも若い者は、そこばかり狙いすぎて困るのさ。
「油断大敵」というのは、そのことだ。
男女の仲があまりに露骨になってくると、かえって色気というものがなくなるね。
「平穏な時にも乱れることを忘れない」という日頃の心得は、まさにこの時のことだ。
血気にはやるのは、失敗の元。
「驕る平家は」なんて言うけれど、たいていここの理屈が飲み込めていないものさ。
さて、そこだ。
ここに浦島太郎が大切にしていたという品があるね。
玉手箱を開けてみると、煙が消えたそのあとに、不思議で面白い二つの小箱が現れてきたのさ。乙姫様の心づくしだ。
「何物だろう」と手にとると、浦島太郎が思わずニヤリとしたというね。
これが今の世に伝わる、男女が仲良くするための秘密の品だ。
浦島太郎と乙姫様が竜宮城で三百年暮らすうち、鮟鱇(あんこう)の踊りも、魴(ほうぼう)の浪花節も見向きもせず、時を忘れて楽しんだという、霊験あらたかな品物で……」

他巳吉はやがてゆっくりと、例の二箱の花札を懐から取り出すのだった。
そして卓一の帰宅が遅くなる夜があっても、他巳吉と澄江は花札を引いて遊んでいた。
「どうしてあんたは毎晩遊びに来ないのかね。
あんたが来ない日は、あの人の顔が悩める金魚になるがね。
どうも何か物足りない、間の抜けた顔になるよ。
ここのところはあんた、一人の男を人間にするか、金魚にするかという大切な分かれ目だ。
あんたも一人前の女だ。ねえ。きっとそうだろう。
親の思惑を気に病むこともないが、毎晩帰りが遅くなって家の具合が悪くなるようなことがあったら、そこはあんた、俺が一肌脱いでやりたいところだが、いやはやどうも、俺はその若い頃から弁護士相手に喋り勝つだけの心得を……いや、弁護士を舌の先で丸め込んでごまかすだけの器量がないと白状するのも面目ないが」

他巳吉は、口先ばかりで実は大の臆病者だった。

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