かつて卓一が文子の行方を突き止めるために高梨の留守宅を訪ねた時のことだが、他巳吉はあんなに威勢よく気炎を上げていたのに、卓一の後からついてきたのだった。
しかし、そこが高梨の家だと分かるところまで来ると、パタリと足をとめて、ニヤニヤと笑いを浮かべ、尻込みをするばかりだった。
「すべてなんだ。この医者の家というものは、殺された患者の亡霊が立ち込めているものでね。この間もあんた、大学病院へ行ったところ、うっかり吸い込んだ息の中に亡霊の片足を吸い込んできて、いや、その晩のうなされようといったら……」
他巳吉は尻込みしながら例の冗談に紛らわせたが、交渉のような肩を張る人生が、もう堪えがたいらしかった。
生まれつきの弱気がいよいよ露骨になったのか、金貸しをしていた頃の虚勢で通した強気の記憶が味気ない思いを深めて、別に気に病む筋合いのないこんな会談に立ち会うことすら嫌な思いがするのだろうか。
しかし、もともと他巳吉には、他人のために進んで一肌脱ぐような、お人好しの親切心は全く持ち合わせていなかったのである。
「私ね。もうここへ来ることをやめようと思うのよ。来るたびにいつも思うわ。もう来てはいけないんだって。だけど、やっぱり来ることになってしまうの」と澄江は他巳吉に言った。
「私ね。もうあの人に会ってはいけないのよ。会いたくないの」
「おやおや。誰だね、その『あの人』というのは」
「お爺さん。真面目に聞いてよ。私ね……だって、今が一番幸福な時なんだわ。そのくせ幸福じゃないわ。苦しいのよ。切ないの。不安で、そして恐ろしいわ。不幸せな、苦しみの予感だけしか考えることができないのだもの。あの人に捨てられる。あの人の愛が冷める。心配や不安や苦痛って、そんな単純なことではないんだけど……もっと口に言えないような、薄暗くて、そしていっぱい立ち込めていて、形のはっきりしないものなの。ねえ、お爺さん。私だから思うんだけど、本当に愛している人と結婚するということが、間違った考えじゃないかしら。本当に愛している人と一緒に暮らそうなんて、虫がよすぎるわ。一生の最後の幸福を、本当に掴んでしまうなんて。私、あんまり虫がよすぎたの」「それは、一生さめることのない夢として、大切にしまっておかなければいけないことなのよ。お爺さんもそう思うでしょう? 思わないのかしら。ほんとうの幸福になりきろうなんて、間違った考えなの」
「さて、これはこみいった話になったな」と他巳吉は、まごつきながら笑いだした。
「とにかく、なんだ。好きな相手と一緒に暮らすほど幸せなことはないがね。それ以上を贅沢に考えたら、あとはもうきりがないものさ」
「ふうん」澄江は他巳吉を睨んだきりで、答えなかった。
それにしても、なんという不安なのだろうか。正体の知れない思いである。澄江は、家族や友人たちに同じことを言われ続けていた。つまり、澄江の見た目はとても派手で自由奔放に見えるけれど、中身はとても家庭的な女だという評価だった。
世話焼きで、誰から見ても普通の幸せをつかむのが似合っている女だ、という評判なのである。澄江自身もその言葉に逆らいきれず、言われてみれば思い当たる節も多い。一度結婚してしまえば、家庭という場所の底で、埃にまみれた下積み生活を送ることになるのではないか。広々とした人生から遠く切り離されてしまう、そんな惨めな自分を想像してしまうのだ。
非常に暗く、嫌な予感だ。助からない、と澄江は思う。
卓一と結婚すると、それがもはや、どうしようもなく逃げ場のないものに思えてくる。彼をせつないほどに愛しているからこそ、なおさらだ。
もし自分が家庭という場所に縛りつけられ、踏みつけられても、浮かび上がる力すら残されていないとしたら。家庭の暗がりに這い回る一匹の虫のようになり、家庭の表面には明るい波があっても、その下層には澱んだ不吉な暗闇があって、自分はその暗闇を守るための醜く欲深い餓鬼の姿にほかならない――そんな苦痛に満ちた思いがした。
また、今の卓一は、四年前の卓一とは違っていた。
澄江が甘えられるような、あの頃の未熟さを失ってしまったのだ。精神のどん底まで足を踏み入れ、あらゆるものを無感動に、感動することさえ無感動に、眺め慣れてしまった冷酷な目をした男だった。
澄江は、卓一と嘉村由子の関係を噂で聞いて知っていた。それを卓一に問い詰めたことがあった。
「私ね」澄江ははじめ、遠回しに言った。
「あなたはもう結婚しているのかと思っていたわ。そんな噂を聞いたことがあったの」
「結婚をしたことはなかったけど」
女との関係を、卓一は少しも否定しなかった。世間体や、ためらいの欠片もないのである。要するに、今さら過去を掘り返しても無駄だと言いたいのだろうか。性欲や、心が通わない好色な夢なんて、結局は避けられないことだから、言っても仕方がないと言いたいのだろうか。
卓一の営々とした理屈の積み重ねは、結局のところ頽廃(たいはい)のどん底に達し、極限まで冷めきった、感動のない灰色の目で、一切の甘さや中途半端を冷ややかに拒んでいるように見えるのである。
理屈や感傷は無駄だ。そして、ひねくれている。昔の人たちの愚かな生活が、それを証明している。そして、昔の悲劇や喜劇で、その問題はとっくの昔に決着がついている。
……まるでそう押しつけてくるような、冷酷この上ない極地の肌寒さが、澄江の心を冷やすのだ。
自分の過去に対して常識的な後悔や恥じらいを持たないことで、かえって澄江の常識的な心を冷たく刺してくるような、あの柔軟性を失った石のような理知の厳しさに、澄江は目を覆わずにはいられなかった。反発を感じずにはいられなかった。
「嘉村さんとは、最近はお会いにならないの?」澄江は突然、由子の名前を口走って、そして激しい怒りを覚えた。
「恐らく二度と会うことはないはずだ。未練に引きずられていたら、きりがないからな」と、卓一は最も退屈で無駄な話に貴重な時間を奪われているような物憂さで、あくまで冷ややかに言い放った。
「あの人の場合と君の場合は、根本的に違うんだ。あの人は千万人の美女の一人にすぎないが、君は唯一の女なのだから。今さら言っても仕方がないよ。もうあの人の話には触れたくないんだ。心が咎めるからではなく、単に無駄で退屈なだけだから」
「いいえ。私はあの人の話ばかりがしたいのよ」澄江は苛立って叫んだ。
「過ぎたことであなたを責めようとは思わないわ。ただ、あの人とあなたのことを、全部知らずにはいられないのよ」
そして澄江は弱々しく呟いた。
「あなたの口から、全部聞かずにはいられないの……」
けれども卓一は、冷めたまま答えなかった。
「あの人は、あなたを愛していたの?」
「さて。愛してはいたんだろうね」
「あなたと別れて生きていけるの? 死んでしまうようなことはないの?」
「死ぬような人ではないんだ。たとえ死んだとしても、仕方のないことだからな」
卓一は、まるで無駄な繰り返しの言葉を蔑むような厳しさで、冷たく呟いたのだった。
それは澄江が予期していた言葉と、あまりに違うものだった。いや、むしろ違っているように思えたのだ。
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