そして心の衰えのために、激しい愛を抱いていながら、愛が冷めていくことを信じ込んでしまったのではないか。
こうして、不当に抹殺された愛情が、やがて由子に復讐する。逆上したような愛の破壊を企てさせてしまうのである。
そういうこともあり得ると、野々宮は思った。
由子の心に新たな男が宿り始めていることを、野々宮はまだ知らなかった。
「奥さんに隠れたりすること、やめなさい。考えるだけで退屈だわ」由子は冷ややかに野々宮の詰問に答えた。
「私、隠れたくないの。退屈だから。隠れたり、怯えたりするにしては、規模が小さすぎて耐えられないから」
しかし、由子は叫んだ。
「早く山へ連れて行ってよ。できれば地上になんていたくないの。ほら、私がこうして目をつぶっているうちに、そっと連れ出してしまって。ああ、もう山も見える。沼も見える。林も見える。私に時間はいらないの。遠さが欲しい」
由子は閉じていた瞳を開いた。そして言った。
「遠さが欲しいのよ。抱きしめていたいのだわ、遠さを」
「もう一度僕の問いに答えなさい。あなたはこの葉書を書いているとき(野々宮はそのとき葉書を手にしていた)、その前後の時間に、やっぱり僕と山へ行くことを考えていたのですか」
そして野々宮は、突き刺すように由子を見た。
瞳に込められた憎しみを見ると、由子は思わずぞっとした。
このような眼を見たことも、かつてなかった。
しかし、このような無残な言葉も、かつてこの人から聞いたことはなかった、と由子は思った。
心が一気に、冷めきってしまった。
この眼、そしてこの言葉ほど、この人の心を表したものはないだろう。
冷たい心。残酷な心。
二人の恋は、ここに終わった。
由子はそう思わずにはいられなかった。その冷たい眼差し、そして突き放すような言葉。それが二人の恋の終わりの合図であることを、この人は知る由もなかった。
由子は、思わず笑いたくなった。
「早く山へ連れて行って」由子は再び繰り返した。
その声には、全身から溢れ出るような甘えが混じっていた。
「ほら、私がこうして目をつぶっているうちに」
この女は、一体何に追われているのだろうか。そして、何に憧れているのだろうか。
だが、野々宮には分かっていた。二人の間に横たわる、決して埋まらない新しい距離が。
そして、その事実に野々宮はひどく侘しい気持ちになった。
結局のところ――と野々宮は思った。この女が憧れるものが何であれ、それは現実の手で掴み取れる何かに違いない。いや、どうしても掴まなければならない何かなのだろう。
この女は現実に追われ、何かに憑かれ、夢を見ている。顔色は青ざめ、心には絶望を感じ、憑かれたように言葉を口走り、見えない何かに背中を押されるようにして生きている。
それでも、この女は生きた世界、現実の中にしっかりと足をつけて生きている人間なのだ。彼女の憧れがどんなものであろうと、それは現実に握りしめずにはいられない、生々しい「可能な世界」の中に限られている。
もはや、二人の血筋そのものが違うのだ。
「もしこの時代の空気が虚無的でなかったなら、彼女の心もこれほど苦しむことはなかったはずだ」野々宮は心の中で呟いた。
「たまたまこの時代が自虐的で、絶望に満ちているから、彼女はただ無我夢中で追いかけ、憑かれ、もがいているだけなのだ。彼女は、ガラス細工のようなこの時代という容器に入っているに過ぎない。もし『豚のような思想』がこの時代の心だというのなら、彼女にとって豚こそが世界のすべてなのだろう。彼女の心は常に時代の表情を借りているだけで、突き詰めれば、結局はあの肉体そのものの所有物だ。所詮、肉体に付随する精神に過ぎない。その絶望も虚無も、ただナンセンスな飾り物でしかないのだ」
野々宮は、由子の肉体を思い浮かべた瞬間に、吐き気のような嫌悪感を覚えた。
「俺も、いずれ死ぬだろう」野々宮は冷ややかに心の中で呟き、自嘲気味に笑った。
「彼女は、そのことに一生気づくことはないだろう。そして俺もまた、そのことについて由子に一言も語ることはない」
彼女は、自分が語られさえしないというこの辛辣な皮肉にすら、永遠に気づくことはないのだ。そうして彼女の肉体は、ナンセンスな飾り物をひけらかしながら、これからも生き続けるがいい。
それはもう、意図せずして生まれてしまった喜劇だった。
死。
結局のところ、死というものは、言葉で語るべきものではないらしい。
野々宮はそう思った。
死について語ることは、実感を持って話そうとしても不思議と空虚なものだし、まして戯れに語れば、ただただ白ける思いを深めるだけなのだ。
「人間同士なんて、いつだってバラバラなんだよ。たとえ恋人同士であってもね。君がそれを知らないだけさ」と、野々宮は由子に向かって冷ややかに心の中で言い放った。
もう十年も前のことだ。野々宮はこんな物語を書いたことがあった。
友人が編集する小さな婦人雑誌に載せられた、童話のような短い話だった。
それは、柑橘類の花が咲き誇る南方の山国の物語。
千年ほど遠い昔の話だ。豪族の息子に、才知に優れた一人の若者がいた。
かねてからの願いが叶い、美しい乙女を妻に迎えた。世の中にこれ以上の幸福はないと、彼は確信していた。富も名誉も、一握りの土くれのように無意味に思えた。妻の心と体さえあれば、それだけで何もいらないと彼は思っていた。
しかし、幸福は長くは続かない。たとえ正当な情熱であっても、情熱というものは永続しないものだと、彼は知らなかったのだ。
愛撫を求める可憐な妻が、次第に少しうるさく感じられるようになる。人生がはらむ虚無や矛盾、悲哀について、彼は何も知らなかった。
彼は、自分の心に悪魔が住み着いてしまったのだと考えた。そして悲しくなり、妻に詫びたい気持ちになった。
それでも、妻から離れようとする心はどうすることもできなかった。
夕暮れに空の雲を見つめていると、自分も雲になって山の向こうへ流れていきたくなり、鳥になって空高く飛び立ちたくなった。
そんなある日、突然の病のために、妻はあの世の客となってしまった。
彼は初めて、本当の悲しみを味わった。切なくて、泣いた。たった一人の愛する者が去ってしまった。自分は取り残されてしまったのだと心の中で叫んだ。
長い慟哭が止まらなかった。
それでも、重荷が降りたような、どうしようもない安堵の気持ちを消すことができなかった。それが彼には、憎らしい悪魔の安堵のように思えた。ずたずたに引き裂いてしまいたいような安堵だった。切なく、腹立たしかった。
柑橘類が実る木々の下を、葬列が通っていく。白い道はいちめんの陽光に照らされ、影がくっきりと伸びていた。
葬列が林の中の草原へ入ったとき、突然、棺の中で異様な物音がした。
たちまち棺が地面に置かれる。人々は立ちすくんだ。
そして一様に飛び退くと、一つのかたまりとなって逃げ出した。彼もまた、その場から逃げ出そうとしていた。
けれども、彼はその場に立ち止まった。
もはや彼は、ひとりぼっちだった。
彼は棺へと近づいていった。
そして、蓋を開けた。
ああ、妻がよみがえり、まるで夢の中から覚めるように起き上がろうとしている。
コメント