初級翻訳・地底戦車の怪人 第5話

地底戦車の怪人

そのへんを、すーっと歩いていましたよ」

   幽霊

「おどかすなよ」
 と、パイ軍曹は、鉛筆で線を引いたような細い口髭を動かして、言いました。
「いえ。
本当です。
軍曹どのとは、全くちがった服装をしていました。
幽霊の足音が、ことんことん床を鳴らしたのを、聞いたようですよ」
「ふーん」
 パイ軍曹の顔が、なぜか、さっと変わりました。
そしてピート一等兵を、じっと睨み据えていましたが、やがて口をひらき、
「その幽霊なら、さっき、わしも、ちょっと見たよ」
 と、今度は軍曹が、変なことを言い出しました。
「はあ、軍曹どのも、見たでありますか。
じゃあ、夢じゃなくて、本物の幽霊が、この戦車の中に現れたんですね。
ううッ」
 と、大男のピート一等兵は、肩をすぼめました。
戦車の中に、幽霊が現れるなんて、途方もない話です。
相当、戦場ではたらいてきた戦車なら、そのとき戦死した勇士の幽霊が、出てくるかもしれません。
だが、これは新しく出来たばかりの戦車なのです。
戦争に出たことは、一度もない。
その戦車に、幽霊が出てくるなんて、変なことです。
「あははは」
 と、パイ軍曹が、とつぜん笑い出しました。
「軍曹どの、なにが、おかしいのですか」
「あははは」
 軍曹の声は、戦車の壁に反射して、妙に、ううーんと後をひきました。
ピート一等兵は、肩のうえに、手をかけながら眼を丸くしました。
「おい、ピート一等兵。
幽霊が出るなんて、嘘だよ」
「はあ、嘘ですか」
「つまり、これは生理的な現象だ。
いいかね。
おれたち二人は、さっきから、同じように頭をがんがんとうったじゃないか。
だから、同じように、頭がへんになって、同じように幽霊みたいなものの姿が、見えたというわけだよ」
「ははン、同じように頭がへんになって、同じような幽霊の姿が、頭の中にうかび出たというわけですか。
なるほど、そうかもしれませんなあ。
軍曹どと自分とは、前から、双生児のように、なんでも気が合うのですから、そういう場合に、二人の頭の中に、別々に出てくる幽霊が同じ姿をしていても、格別不思議ではないわけですなあ。
なるほど、ああなるほど」
「お前のように、臆病で、びくびくしていると、西瓜が、機雷に見えたりするのだ。
しっかりしろ。
あははは」
 パイ軍曹は、笑いました。
だが、その笑い声は、あまり朗らかであるというわけにはいかず、どっちかというと、とってつけたような笑い声でした。
それでも、ピート一等兵は、やっと、落ち着いたようでした。
「なあに、自分は、たいていの物にはおどろきませんが、幽霊ばかりは、苦手なんですよ。
あのひきずるような足音、そして地の底から呼んでいるようなあのうつろな声、あいつは、まっぴら御免ですよ」
 そう言いながら、彼はポケットをさぐって、煙草を探しました。
だが、煙草は、ありませんでした。
「あれ、煙草がない。
しまった、船へ、おいてきた。
軍曹どのは、お持ちですか」
「なんだい、煙草か。
うん、煙草なら、ここにあるが、まさか、この戦車の中じゃ、油があるから、危なくて吸えないよ」
「ははあ、なるほど」
 と、ピートは、うらめしそうです。
「あっ、たいへんだ。
軍曹どの」
「なんだ、おどかすなよ」
「たいへんですよ、これは。
煙草のないのはいいが、一体これからのわれわれの食事はどうなるんでしょうか」
「うん、そのことには、よわっているんだ。
しかし、一体われわれは、いつまで生きているかということの方が、先の問題だよ。
まあ、どうせ、無い命なんだから、それまでは、朗らかにやろうぜ」
「朗らかにやれといっても、食うものがなくちゃ、朗らかにやれませんぜ」
「ぜいたく言うな。
とにかく、この戦車は、深い深い海底へおちこんでいるんだから、救援隊は来っこなしさ。
ただ、こうして死をまつばかりだよ」
「いやだなあ。」「どうせ乗るなら、戦車よりもボートの方がましだったな」
「どうしてだ?」
「だって、ボートに乗っていれば、空を見上げれば天から降ってくる雪を口に入れることができるし、たまには近くの流氷の上に白熊が乗っているかもしれない。そうすれば銃をぶっ放して、白熊の肉にありつけるかもしれないでしょう」
「やめろ、そんなうまそうな話は! よけいに腹が減って、よだれが出るばかりだ」
 と、パイ軍曹は腹を立てました。

   林檎

 傾いた戦車の中に、電灯だけは贅沢にも煌々と照っています。
 ピート一等兵は、大きな図体を小さく縮めながら、気絶したかのように床を見つめていました。
(ああ、なんとかして、もう一度パンというものをむしゃむしゃ食べてみたい。娑婆には、昔ビフテキなんていううまいものがあったなあ)
 そんなことを考えているうちに、ピート一等兵は「おや?」という表情で、鼻をひくひくさせました。
(おや、なんだか食べ物の匂いがする!)
 彼は、くすんくすんと鼻を鳴らしました。
 すると突然、まるで御伽噺のようなことが起きました。
 それは、傾いた戦車の鉄板の床の上を、林檎のような形をしたものが、ころころとピート一等兵の足元へ転がってきたのでした。
 彼は太い指で、何度も目をこすりました。
(あれえ、俺の目はどうかしているぞ。あまり食べ物のことを考え続けたせいで、とうとう俺の頭は変になって、ありもしない林檎が目の前に見えるんじゃないか)
 目をぱちぱちさせてみましたが、確かに彼の足元には林檎が落ちています。
 彼は何度も手を伸ばそうとしては、いやいや、手を出してはならないと、はやる心を押さえました。
 なぜなら、手を林檎の方へ伸ばした最後、せっかくの林檎がシャボン玉に触れたように、すっと消えてしまうのではないかと思ったからです。
 幻にしても、林檎の形が見えている間は楽しいものです。幻が消えてしまえば、どんなに寂しいことでしょう。
 それを考えると、ピート一等兵は手を伸ばすこともできず、体を石のように固めて、足元へ転がってきたその怪しい林檎を見つめました。
 しかし、その林檎の色はあまりに美しかったのです。真っ赤なつやつやした色が、食欲をそそり立てずにはおきませんでした。
 そして、あの甘酸っぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつき刺したように感じられたのです。
 ついに、ピート一等兵は幻の林檎の誘惑に負けてしまいました。
 彼はぶるぶると震えながら手を伸ばし、思い切って林檎をつかみました。
「おやっ」
 大きなおどろきの声が、彼の口から飛び出しました。
「あっ、本物の林檎だ!」
 彼はその場に躍り上がりました。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら自分は、とうとう気が変になってしまったのかもしれないと考えながら……。
「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気を静めなくちゃ……」
 パイ軍曹は、突然ピートが騒ぎ出したので、これまた心臓が破裂しそうなほど驚きました。
「軍曹どの。奇蹟です。大奇蹟です」
「なんだ、奇蹟とは」
「あり得ないことが起きたのです。ほら、この林檎です。自分の足元へころころと転がってきました。この林檎がですよ」
「あっ、林檎だ! こっちへよこせ」
「だめです。

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