初級翻訳・塩原多助一代記 第33話

塩原多助一代記

ここへ置くと邪魔になるから、空いている場所があるからそこへ入れておくれ」
多助「それならこの戸袋の下へ入れておきます。犬が小便をかけると火をつけた時に臭いですから、戸を立てかけておきますね」

そう言いながら縁側の方を見ると、旅の荷物に縛り付けられた荷札に「塩原角右衛門」と太い筆跡で書かれているのが目に入りました。多助はハッとして、思わず縁側のほうへ近づいていきました。

多助は戸田様のお屋敷へ炭を届け、帰ろうとした時にふと目についた荷札に、自分の父親の名前があるのを見つけました。驚いて縁側の方へ駆け寄ります。

多助「さっき出てこられた奥様!」
妻「おかしな人だね、奥様なんて呼んでどうしたんだい?」

そう言いながら庭口の縁側の障子を開けて出てきたのは、四十五、六歳くらいの気品のある女性でした。普段着で紬を着ていますが、お屋敷の奥様らしく紋付の羽織をまとっています。

妻「何か用があるのかい?」
多助「ここに荷物があって、木札に『塩原角右衛門』と書いてありますが、この方は肥前の島原へお国替えになって行かれたあの方ではありませんか?」
妻「よく知っているねえ。うちの主人が塩原というのですよ」
多助「それではこの家は、元は阿部様の家来で、長く浪人をされて上州小川村に住み、またこちらのお屋敷の家来になられた方……。あなたは塩原角右衛門様の奥様、おせい様でいらっしゃいますか?」
妻「そうですよ。どうしてそれを知っているのですか?」

そう言われて多助は飛び上がるほど嬉しくなり、涙声を振り絞って叫びました。

多助「お母様!」

多助は我を忘れておせいの着物の裾にすがりつきました。

多助「お懐かしゅうございます、お母様! 八歳の時にお別れした、実の息子の多助でございます!」
おせい「おやまあ、なんてこと……。多助、そんな見る影もない姿になって……」

二人はその場で抱き合い、声を上げて泣き出しました。多助「これにはいろいろ深い事情がありまして。どうしてもお父様やお母様にお目にかかりたいと強く願い、毎日信心を続けたおかげで、こうしてお元気なお顔を拝見することができました」

その声を聞きつけた角右衛門が奥から飛び出してきました。彼は何も言わずに妻のおせいの手を引くと、奥へと連れ込み、縁側の障子をバタンと閉め切ってしまいました。多助は呆然として叫びます。

多助「お母様! お母様! 今出てきてお母さんの手を引っぱっていったのは誰ですか? お母様、もしかしてお父様ではありませんか? お母様、お父様なのですか?」

すると障子の向こうから角右衛門の声が響きました。

角右衛門「黙れ! 殿様のお側近くにお仕えするこの塩原角右衛門が、炭屋の下男などに知り合いなどおらん。確かに十五年も前、阿部家を出て上州小川村で浪人していた頃のことだ。沼田の下新田に同じ『塩原角右衛門』という百姓がいて、私と同じ名前という縁もあり、乳飲み子だった多助を育ててくれと頼まれたから、やむなく引き受けた。この清(おせい)の乳を飲ませて八歳まで育てたが、親からの返せという願いに従って引き渡したのだ。その際、実父の角右衛門殿から『長らく世話になった礼だ』と五十金をいただいた。その金で身支度を整え、借金を返して江戸へ出て、今の御当家に仕え、今では三百石を頂戴する身分となった。これも沼田の角右衛門殿の恩義だ。恩義を知らぬわけではないが、お国詰を命じられて遠く離れていたし、便りを出せば、多助が私を実の親だと思い違いをして、実父の角右衛門殿に不孝を働くのではないかと案じ、あえて便りを控えていたのだ。
ところが、十四年ぶりに江戸へ出てから国へ手紙を送ると、分家の太左衛門から返事が来た。『角右衛門殿は一昨年亡くなり、跡を継ぐはずの多助は昨年家出をして、家は取り壊され絶えた』と。これには驚いた。その返事が事実なら、多助という奴は人でなしだ。仮に多助が私を実の親と勘違いして江戸へ来て、ずうずうしく訪ねてきたとしても、対面などできるものか。若い頃のことだ、女に溺れるか酒におぼれて身を持ち崩し、路頭に迷って見る影もない姿でうろついているのだろうと、清と二人で朝夕心配していたのだ。親の家を捨てて国を出るなど、家督人として不届き千万! 帰れ、二度と会うことはない!」

清(おせい)も続けざまに言います。

清「お父様が怒るのも無理はありませんよ。多助、あなた心得違いをしています。多助、あなた以外に塩原の家を継ぐ者はいないのです。それを若気の至りで女遊びに金を使い果たし、家出をしたなんて、なんと浅ましいことでしょう。十五年前に沼田へ送ってからというもの、暑い日も寒い日も、旦那様と私はあなたのことばかり考えていました。田舎で我儘を言って叱られていないか、学問もろくにできていないのではないかと毎日噂していたのです。そんな姿で訪ねてきても、お父様は厳格な方ですから会うはずがありません。国へ帰って立派に家を再興すれば、その時は会えるかもしれません。炭などを担いで『お父様、お母様』なんて、あまりに分別がありませんよ。早くお帰りなさい」

多助は涙ながらに訴えます。

多助「いいえ、私は女遊びで金を使い果たして国を出たわけではありません。国を出たくはなかったのですが、そこに居れば命にかかわる事情があって……」

多助は養母やおえいの悪事を話そうとしましたが、思い直しました。この悪事を知れば、お父様やお母様がどれほど驚き、心配されることか。黙って帰ろうと心に決めました。

多助「おっしゃる通りです。いろいろ深い事情があるのですが、今は言えません。しかし、後で必ずわかるときが来るはずです。国に居れば命が危ないから、やむを得ず出たのです。家が潰れることはわかっていましたが、命を奪われては家を立てることもできません。江戸で奉公して金を貯め、国へ帰って家を再興しようとやってきたのです。頼るあてもなく、昨年の八月二十日にこのお屋敷へ伺ったとき、お国詰だと聞き、島原は遠すぎて途方に暮れました。身投げしようとしたところを今の主人、山口屋善右衛門様に助けられ、奉公人として使っていただいているのです。十年でも二十年でも死ぬ気で稼ぎ、必ず家を立て直しますから、どうぞご心配なさらないでください」

角右衛門「黙れ! それほど恩義を知るなら、なぜ家を捨てる! 今の主人にも忠義を尽くし、金を貯めて国へ帰り、立派に家を立て直せ。名を後世に残し、親を顕彰するくらいのことは、八歳の時に寝物語で言い聞かせたはずだ。早く帰れ!」

清「もう会うことはありませんから、お帰りなさい」

多助「はい、帰ります。八歳の時に別れたきりでしたから、お父様のお顔も知りません。お母様には今初めてお会いして、お顔を覚えることができました。お父様のお顔だけでも見せてください。そうすれば、お父様が通りかかる時に眺めて、あぁお元気で奉公していらっしゃるのだなと思えば、言葉は交わせずとも心丈夫に奉公ができます。お父様、お母様、どうぞお願いです!」

多助は縁側に這い上がって男泣きに泣き崩れました。障子の向こうの角右衛門も、親子の情に思わず膝に涙を落としましたが、武士の魂を奮い立たせ、声を荒らげました。

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