あははは、私も紋付きの筒袖は初めて見ました」
善「選りによって『轡(くつわ)』の紋付きを買ってきたのはどういう訳だ? まるで薩摩様の御紋所のようだな。多助、何かそれがお前の家の定紋(じょうもん)か?」
多「そうではございません。旦那様、聞いてください。国を出る時に、沼田の原中の一本松へ、長い間乗り慣れた『青』という馬を繋いで、名残が惜しいから別れを告げながら、馬の顔を撫でて『俺は江戸へ行って奉公して帰ってくるまで、達者でいてくれよ』と泣いたのです。すると馬も別れを惜しんで泣きました。私も馬が泣くのを見たのは初めてでしたが、大きな目から涙を砂原にポロポロと落とした時には、誰と別れるよりも辛くて。畜生でさえこうして名残を惜しんで泣くのかと思った時には、実に辛くて袖がびっしょりになりました。それから江戸へ出てきても尋ねる人には会えず、他に知り合いもなく、身元引受人もいないから奉公することもできず、いっそ身を投げようとしたところを旦那様に助けられました。今では雨にも風にも当たらず、温かいご飯を食べられて、こうして何不自由なくおります。しかし、人は楽になるとすぐに苦労したことを忘れてしまうものです。私はその苦労を忘れないために、たまたま見つけたこの『轡』の紋を見て、少し我儘な根性が起きた時にはこの紋を見て、馬と別れた時の辛いことを思い出し、『あれを思えば何でもない』と自分を戒める手本にするために買ってきたのです」
善「ほう、なるほどなるほど。感心だ、どうも感心だよ。和平どん、特別だなあ」
和「誠に感心なことでございますな。妙に珍しいものです」
善「まあまあ、精を出して働け」
多「へいへい、ありがとうございます」
多助は隙間もなく身を粉にして、忠義を尽くして働きました。そのため、出入りの者たちも自然と多助を可愛がるようになったのです。こうしてその年も暮れ、翌年のちょうど九月ごろには、多助も仕事にすっかり慣れてきました。そこで善右衛門が言いました。
善「多助、多助」
多「はい」
善「お前にはまだ給金をいくらにするか決めていなかったが、よく働いてくれるから、そろそろ給金を決めようと思う」
多「いいえ、旦那様。私、給金はいただきません」
善「もらわないわけにはいかない。給金は決めてもらわなければ困るんだよ」
多「それだけは、どうしてもできません」
善「決めた給金を貯めて、国へ帰る時の元手にして、家を立て直すのではないか」
多「でも、命を助けてくださった旦那様のために働くのは当然のこと。お給金までいただくなんて、申し訳なくてできません」
善「それじゃあ困るなあ」
多「それなら旦那様、私に一つお願いがあります。そこらに落ちている廃品を拾い集めて、それを売ります。二文でも三文でも旦那様にお預けしますから、安い利子で結構ですので、私が国へ帰るまで預かってはいただけないでしょうか」
善「拾い集めるといっても、何を拾うんだ?」
多「何でも構いません。捨てられてしまうようなものなら、タバコの吸い殻の粉でも、草履やわらじの使い古しでも、みんなが捨てる縄の切れ端や紙くずなど、何でも拾って貯めて売ります」
善「そんな物を買う人がいるのか?」
多「何でも廃品にはなりません。釘の欠片でも拾います。それを売って金を貯めるんです」
和「あまり拾いたがって、もし店に来たお客さんが落としたキセルやタバコ入れなんかを拾ったりしちゃいけないぜ」
多「そんなことはいたしません。あくまで人が要らなくなって捨てるものだけを拾うのです。番頭さんはそんな疑いをお持ちになるのですねえ。自分自身にやましい心がなければ、そんなことは言わないはずです。自分の心にあると、人もそうするのかと思ってしまうものですが、私はみんなが要らなくなって川へ投げ捨てるようなものだけを拾い集めるのです」
善「どこに貯めておくつもりだ?」
多「裏の、屋根が破れて物が置けなくなっていた場所ですが、板を載せておきました。裏の大きな納屋が空いているようですが、別に何も入れていないようですから、旦那様、あそこを安い店賃でお貸しいただけませんか」
善「お前に貸すのに店賃なんていらないよ」
多「それなら、あの納屋を物でいっぱいにしてしまっても大丈夫でしょうか。その代わり、お給金なしで働かせていただきます」
善「感心なことだ。その志が面白い。貸してあげよう。だが、そろそろあちこちのお得意様やお屋敷を教えておかなければならないな。戸田様のお屋敷へ多助を遣ろうか、番頭」
番「それがよろしいでしょう」
善「多助や」
多「へい」
善「そこに四俵、大俵があるだろう。それを向こうの戸田能登守様のお屋敷へ持っていっておくれ。通用門から入って、鎌田市作様のお宅へ届けるのだ。分からなければ門番に聞きなさい」
そう言って、受取書を持たせて送り出しました。多助は寄り道もせず、天秤棒をギシギシと鳴らしながら、戸田様のお屋敷の門までやってきました。
多助「すみません、御免ください」
門番「なんだ、なんだ」
多助「炭屋善右衛門のところから参りましたが、このお屋敷の家来に、鎌田市作(かまだ いさく)様という方はいらっしゃいますか?」
門番「なんだ、フフッ、鎌田市作様のことか」
多助「そうです、よくご存じですね」
門番「おいおい、けしからん奴だな。門を入って板塀沿いに真っ直ぐ行くと馬場に出るから、そこを曲がると裏手に長屋が四軒並んでいる。その二軒目だ」
多助「ありがとうございます」
多助は再び炭を担いで教えられた通りに進むと、「鎌田市作」と書かれた表札がありました。
多助「御免ください」
妻「どちら様?」
多助「炭屋善右衛門から、炭を持ってまいりました」
侍(市作)「そうか、ご苦労。何俵持ってきた?」
多助「四俵持ってまいりました」
侍「それなら二俵はここに置いて、あとの二俵は一軒飛ばした隣の家へ届けてくれ。まだ荷物の整理もついていないだろうが、市作からそう言われたと言って二俵運んでくれ」
多助「へえ、一軒お隣ですね。承知いたしました。ですが、代金をいただいてからにしたいのですが」
侍「代金なら後で払うよ」
多助「でも、こうして受け取りの印をいただく以上、まずは二俵分だけでもいただいておきたいのです」
侍「後でまとめて払うと言っているだろう」
多助「炭だけ持っていかれて、後になって『代金をもらった覚えはない』と言われては困ります。私は田舎者で気の利いたことは言えませんが、主人が大事にしている炭ですから、代金をいただかないと困るんです。さあ、お願いします」
侍「『よこせ』とは何だ、おかしな奴だな。もういい、持って行け!」
侍が投げ出した代金を多助は受け取り、懐へ入れました。
多助「では、この二俵を隣へ運ばせていただきます」
多助は炭を担いで隣の家へ向かいました。
多助「御免ください、御免ください」
妻「あら、誰かしら」
多助「へえ、炭屋の奉公人です。一軒隣の鎌田市作様から、炭を二俵持ってまいりました」
妻「炭屋さんね、ご苦労様」
多助「うちの炭は良い品を選りすぐって安く売っておりますから、炭を買うならうちで買うのがお得ですよ。他所で買っては損をしますからね」
妻「そうかい、じゃあ他所では買わないことにするよ。
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