森の木々は、まるで後ろに逃げていくように小さくなっていき、遠くの海は、時々お日様の光をギラリとはね返しています。
やがて、小さなおもちゃの箱庭のようになった地面が、どんどん遠ざかっていきます。
黒吉は、すっかり夢中になって、お祭り騒ぎのように大はしゃぎしていました。
(これは、思っていたよりもずっと、ずっと素敵な仕事だぞ!)
(おれは、この景色をぐるぐる回しながら、空から飛び降りるんだ!)
(あの静かな世界に飛び込んだら、きっとまた、おしゃべりで楽しい『不思議な夢』が見られるにちがいない……)
そう考えると、今すぐにでも飛び降りたい気持ちになって、思わず飛行機のドアをぎゅっと握りしめ、身を乗り出して、何度も何度もはるか下の景色をのぞき込むのでした。
九ノ二
「どうだった……?」
研究所からもらえる少しばかりのお給料のおかげで、黒吉はなんとかその日の暮らしに困ることはありませんでした。
由子ちゃんは、この小さな町にたった一つだけある「カフェ(喫茶店)」で、ウエイトレスとして住み込みで働くことになりました。
お給料は少なかったけれど、そのお店「金鳥(きんちょう)」のマスターの目を盗んでは、黒吉がのんびり暮らしている雑貨屋さんの二階へ、たびたび遊びに来てくれたのです。
「どうだった……?」
「うん、すごかったよ、由っちゃん!」
「あら、そうなの?」
「だってさ、なんというか、空中ブランコの曲芸なんて、飛行機に比べたらちっぽけなものだよ。いいなぁ、飛行機は……」
「まあ、素敵ね。わたしも乗ってみたいなあ」
「だめだよ、女の子には無理さ」
「あら、そんなことないわ! 女の子だからだめなんて、ひどい、ひどいわ……」
由子ちゃんは、かわいくフンと鼻を鳴らすと、めいっぱい甘えるようにして、黒吉の肩をゆさゆさとゆすりました。
「よせよぉ……」
黒吉は口ではそう言いながらも、由子ちゃんの丸い肩を、ゴツゴツした手でそっと抱きしめました。
黒吉は、自分でも不思議でたまりませんでした。
自分の姿が、人一倍かっこ悪いことは、他の誰よりも自分自身がよくわかっていました。もともと見た目に自信がなかったのに、あのブランコから落ちた大ケガで、片足と片目をなくし、おまけに顔の右から左へ斜めに、太いミミズのような大きな傷あとが残ってしまったのです。今では自分でも鏡を見たくないほどでした。いや、黒吉は昔から、自分の顔をそのまま映し出す鏡というものが大嫌いだったのです。それなのに、こんなにかっこよくない自分に対して、どうしてあの葉ちゃんも、この由子ちゃんも、こんなに優しくしてくれるのでしょう。
これが女の子の気まぐれというものなのでしょうか。それとも、何か極端なものが好きという、女の子の不思議な心なのでしょうか。
「由っちゃん」
黒吉は、由子ちゃんの柔らかい肩にあごを乗せて、透き通るような白い首すじに見とれながら、ささやきました。
「由っちゃん……どうして、ぼくみたいなやつが好きなの? こんな怪物みたいにボロボロな男なのに……」「お店には、もっとかっこいい男の人がたくさん来るんじゃないの?」
と黒吉が聞くと、由子ちゃんはフンと鼻を鳴らしました。
「何言ってるのよ。お店に来るような、かっこつけてるだけの色の白い男なんて大嫌い! 見た目はすましているけれど、考えていることはみんな同じ。女の人のことばかり追いかけて、本当に浅ましくて……もう、嫌になっちゃうわ」
由子ちゃんは、思わずびっくりするくらい強い口調で、やってくるお客さんの悪口を吐き出すように言いました。
「ふん、私はね、あんなオオカミみたいな男の人より、あなたみたいに心がさっぱりした人が好きなのよ……」
それは、16歳の女の子にしてはずいぶん大人びた考えでした。由子ちゃんは、他の人よりもずっと、20年も長く恋の経験を積んできたような気持ちでいたのです。
――サーカス団にいたころは、あんなに子供っぽかったのに――。
「そうか……。じゃあ、女の子に好かれるには、わざと知らん顔をしていればいいんだね」
「まあ、そうね。でも……私にまでそんなことしたら許さないわよ!」
と、由子ちゃんは大人みたいに黒吉をにらんでみせました。
「しないよ。おれは、そんなこと絶対にしないよ」
黒吉は、由子ちゃんのうなじをじっと見つめながら、
「しないよ、するもんか……」
とつぶやきました。そして、そっと手を回して由子ちゃんを抱きしめたとき、その体は驚くほど柔らかくて温かかったのです。黒吉の震える指先は、吸い込まれるように由子ちゃんのぬくもりを感じていました。
振り返った由子ちゃんは、何も言わずに不思議な笑顔を浮かべました。その顔は、もう子供の顔ではありませんでした。
「あら、だめよ、だめよ……」
と言いながらも、由子ちゃんは黒吉の手をぎゅっと抱きしめたまま、離そうとしませんでした。そして、静かに目を閉じました。
黒吉も、そっと目を閉じました。
すると、腕の中にある温かな感触が、まぶたの裏に浮かぶ「葉ちゃん」の姿と重なって見えてきました。まるで、あの葉ちゃんを力いっぱい抱きしめているような気持ちになったのです。
(葉ちゃん……!)
そう思った瞬間、もう腕の中にいるのは由子ちゃんではなく、大好きな葉ちゃんでした。
激しい情熱が、黒吉の体中を駆け巡りました。
(葉ちゃん!)
と心の中で叫びながら、由子ちゃんに頬ずりをして、夢中で抱きしめました……。
その日、黒吉の心の中では葉ちゃんと、由子ちゃんの心の中では黒吉と、二人は結婚したような気持ちになったのです。少し背伸びをした二人は、それで十分に幸せでした。
九ノ三
飛行機に乗る練習を二、三回繰り返すと、いよいよ黒吉は、命を一本のひもに預ける「パラシュート隊員」として、初めての飛び降りに挑戦することになりました。
――飛行機から飛び降りて、心の中で5つ数えてから、力いっぱいひもを引いてパラシュートを開く。あとは、ゆらりゆらりと空の自由人を楽しめばいいのです。
けれど、それはものすごくハラハラする瞬間です。
もしひもを引いても、パラシュートが開かなかったら!
万が一にもそんなことになれば、黒吉はもう二度と生きて地面に降りることはできません。
おまけに、このパラシュートはまだテスト中のもので、絶対に安全だという保証はどこにもなかったのです。
パラシュートを作った技師さんも、自信はありましたが、本当に大丈夫かどうかは、何度もテストを繰り返してみるしかありません。
もし、ひもが一本でも絡まっていたら。もし、たたみ方が少しでも間違っていたら……。
黒吉の体はバラバラに壊れてしまうでしょう。なんて恐ろしい仕事でしょう。
なんて命がけのテストでしょう。パラシュートで降りる人、それは大空の自由人なのです。
……その日、地面の上では研究所の人たちが、「体の不自由な黒吉くんが、一体どんなふうに飛び降りるんだろう」と、ドキドキしながら空を見上げていました。青空の中を、大きな音を立てて銀色の翼が飛んでいくのを、じっと見つめていたのです。
飛行機は、羽を広げたトンビのように空を回っていました。
コメント