初級翻訳・大根の葉 第1話

壺井 栄

一

 健ちゃんのお母さんは、今夜また、赤ん坊の克子(かつこ)ちゃんを連れて神戸(こうべ)の病院へ行くことになっていました。
健ちゃんはどうしてもお母さんについて神戸へ行きたいと思ったのですが、お母さんはどうしても「いいよ」と言ってくれません。
部屋いっぱいに広げられた服や身の回りのものを、大きな柳行李(やなぎごうり:竹や柳で編んだ大きな荷物かご)につめこんだり、またそれを出してつめ直したりしているお母さんのすぐそばで、健ちゃんはプンプンとおこって突っ立っていました。
いつだって、どこへ行くときだって、お母さんは克子ちゃんをおんぶして、健ちゃんの手を引いて出かけてくれたのです。
お祭りに行ったときも、学校の運動会のときだって、一緒につれて行ってくれました。
なのに、神戸へはどうしてもつれて行ってくれません。
この前行ったときも、そして今回のときも、克子ちゃんだけを連れて行って、健ちゃんはお隣の村のおばあちゃんの家でお留守番をしていなさいと言うのです。
健ちゃんは不満でたまりませんでした。
ぼくはまだ一度も大きな船(汽船)に乗ったことがないのに、克ちゃんは赤ん坊のくせに、もうこれで二回も乗るんだぞ!
健ちゃんはどうしても船に乗って、お母さんに手をひかれて神戸へ行きたくてたまらなかったのです。

「ねえ、健ちゃん。お土産を買ってきてあげるからさ。おもちゃとか、バナナとかね。良い子だからね、おばあちゃんの家で待っておいで、ね?」

お母さんは何回目かになる同じ言葉をくりかえすと、荷物をつめる手を止めて健ちゃんの顔をじっと見つめました。

「やだやだ! 健も神戸に行くんだい!」

健ちゃんも、何回目かの口ごたえをしました。
もう絶対に、おばあちゃんの家になんか行くもんかと言わんばかりに、肩をゆすって一歩後ろへ下がりました。

「ふーん。じゃあ、健ちゃんはもうアホになってもいいのね。」

お母さんは体を開き直して、健ちゃんに膝を近づけました。

「うん、アホになってもいい!」

「そうかい。じゃあ健ちゃんはアホなんだね、今の『半べ(はんべ)』みたいなアホになっちゃうよ。それでもいいの?」

「うん、いいよ!」

健ちゃんは、ふだんはアホになるのが大嫌いでした。
『半べ』という変な大男が、のっしのっしと一日中、村の中を歩き回っているのが、この世でいちばん怖かったのです。
半べみたいにならないためにも、健ちゃんはお母さんの言うことを聞いて、お使いをしたり、イタズラをやめたりしてきたのでした。
けれど、今日は違います。
お母さんと一緒に神戸へ行けるなら、あとで半べみたいになっちゃったってかまわない!と思ったのです。
お母さんは、真剣そのものの顔をしている健ちゃんを見て、思わずクスッと笑い出しました。

「健ちゃん、そんなに神戸に行きたいの?」

「うん、行きたい! 健、行きたい行きたいんだい! 船に乗ってさ!」

健ちゃんは、むくれていた顔をほころばせて、お母さんを見てにっこり笑いました。

「こまったなあ。健ちゃんはアホになってもいいなんて言うんだから。」

お母さんは、また前を向いて荷物づくりを始めました。
健ちゃんは目をぱちぱちさせながら、忙しそうに動くお母さんの手元をじっと見ていました。
けれど、やっぱり荷物かごの中には、克ちゃんの服や着物、それからお母さんの着物や羽織(はおり)、新しい毛糸のたばなどがたくさん詰め込まれ、パタンとふたが閉められてしまいました。
そして、健ちゃんの着替えの服やエプロンは、別の風呂敷(ふろしき)に包まれました。
それを見た健ちゃんは、またもとのいじけた顔に戻り、くるりと背中を向けてうつむいてしまいました。
お母さんは白いエプロンの袖(そで)をたくし上げると、できあがった荷物を部屋のすみっこへ押しやり、サッ、サッと威勢よくホウキで掃除をし始めました。

「おや、大きなゴミがここにあるぞ。あらら、このゴミには足が生えているなあ、面白いぞ。おやまあ、服まで着ている……なんだ、ゴミかと思ったら健ちゃんじゃないか。」

お母さんは健ちゃんの前に回り込み、目を足元からだんだん上へと動かしていきました。
健ちゃんは、いつものように笑って逃げ出そうとはせず、またくるりと背中を向けました。
お母さんは健ちゃんの足元だけをよけてホウキをかけると、隣の部屋で寝かせていた克子ちゃんのそばへ行って着物を着せ替えました。今度は健ちゃんのところへやってきて、黙って服を脱がせ、まるで人形のようにじっとしている健ちゃんを、手慣れた手つきですばやくパンツまで履き替えさせました。
健ちゃんの大好きな、ラクダ色の毛糸のお洋服でした。
ヤカンのお湯をタオルに注ぐと、健ちゃんの頭をちょっと荒っぽく抱え込んで、顔をゴシゴシと拭きました。
それからお母さん自身も、しま模様の普段着に着替え、お出かけ用の紫色の矢絣(やがすり)模様のおんぶ半纏(はんてん)で克子ちゃんを背負うと、バタバタと家じゅうの戸締まりをしました。
健ちゃんは、結局押し出されるようにして、仕方なく縁側(えんがわ)へ出ました。
靴がちゃんとそろえて置いてあります。
東京にいるお父さんから届いた、お正月用のピカピカの革靴です。
それでも、健ちゃんの気分はすっきり晴れません。

「さあ、はやく靴をはきなさい。」

お母さんはしゃがみこみ、片方の靴を手にして待っています。
健ちゃんはやっぱり黙ったまま縁側の上に突っ立ち、両手をだらんとぶら下げて、ぼんやりしたような、いじけたような、それでいて今にも泣き出してしまいそうな、なんとも言えない顔をしていました。
お母さんは困り果てた顔をして靴を元の場所へ置くと、縁側に腰を下ろしました。
そして、そこに座ったまま、自然と目に飛び込んでくる観音山(かんのんやま)の方を、ともなくじっと眺めるのでした。観音の山からは、ごーん、うおんうおん――と、絶え間なく鐘の音が響いてきた。
木々の生い茂る山肌のあちこちは彼岸桜に彩られて、そこだけ一足先に春が来たみたいに鮮やかな薄紅色に浮かび上がっている。
山の中腹からふもとの家々まで段々畑が続いていて、その青々とした麦畑や、みかん畑の間をぬうように曲がりくねった巡礼の道には、山から下りてくるお遍路さんの白い姿が見えかくれして、お経を唱える声がはっきりと聞こえた。
やがてお母さんは健ちゃんのそばに近づいて、その顔をのぞきこんだ。
「健ちゃん、お正月が来ていくつになったんだっけ?」
やさしい声だった。
もうおばあちゃんの家に行くのをやめたような顔に見えた。
健ちゃんは思わず引き込まれた。
「五つ。」
「克ちゃんはいくつになったんだっけ?」
「二つ。」
「健ちゃんと克ちゃんと、どっちがお兄ちゃんだっけ?」
「けん!」
「そしたら、健ちゃんと克ちゃんと、どっちがかしこいかな?」
「けん!」
健ちゃんは得意になった。
大きなお鼻がふくらんで、ほっぺたをゆるめて笑うと、ほっぺたの垂れ下がった丸い顔がますます大きくなった。
お母さんは、さらににこにこしながら顔をぐっと近づけ、健ちゃんの肩を両手ではさんだ。

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