角井も、ちょうど自分ひとりで二度目の盃を口に運ぼうとしていたところだったが、明子の名前が飛び出したものだから、思わずお酒を吹き出しそうになってしまった。
そして、それだけでは我慢できなくなったのか、「はははっ」と声を上げて大笑いした。
なぜなら、少し前まで玄竜の噂話をしていた際、田中から「この男が自分の妹にしつこくつきまとって本当に困ったんだ」という話を聞かされていたからだ。
玄竜といえば、いつも田中がいない隙を見計らっては家にやって来て、田中の部屋着である「どてら」を勝手に羽織り、いかにもこの家の主人のような顔をして机の前に陣取っている。そして、当の田中が帰ってくると、まるで自分が客でも迎えるかのような調子で「おや、これは珍しいね」などと言い放つような男だったというのだ。
しかも、ある日の夕方のこと。田中が街なかでひょっこり玄竜に出くわしたとき、「大変なことがあるんだ」と持ち金をすべてすっかり巻き上げられてしまった。
そして、後からトボトボと家に帰ってみると、玄竜はその金で林檎やシュークリームをどっさり買い込み、妹に無理やり食べさせながら、きゃあきゃあと大喜びしていたというのである。
角井は、その時の面白い話を思い出して笑ったのだった。
――だが今の玄竜にとっては、田中とこうして再会できたことだけで、これまでのあらゆる悲しみや苦しみもすべて霧のように消え去り、ひとりでに嬉しさがこみ上げてきて、いよいよおしゃべりに拍車がかかっていた。
特にすぐ傍には角井もいるし、これまで自分の書いたものについて散々偉そうに批評してきた手前もあったので、ここは思い切って大きく出ようと意気込んだ。
「日本に帰ったら、S先生にもよろしく伝えてくれよ。『あいつは朝鮮に戻ってからも相変わらずいい仕事をしてますよ』ってな!」
あるいは、
「T先生は元気でやっているかね?」
それから、
「R君はどうしている?」
「D君の奥さんは元気か?」
……だが、あいにく田中は、そんなSやTといった有名作家たちと親しく付き合っているような売れっ子小説家ではなかったので、しどろもどろになりながらその場をごまかすしかなかった。
なにしろ彼はこの頃ひどいスランプの真っ只中で、まともに文章が書けなくなっていたのだ。だから、「いっそ今流行りの満州あたりにでもフラッと出かけていけば、これまでとは違う新しい肩書でもついて、また違った分野の仕事ができるかもしれない」と思い立ち、ただ気晴らしに出かけてきただけだったのだ。
それでも出発する際には、ある雑誌から「朝鮮の知識階級に関するルポを書いてほしい」と頼まれていた。そのため彼は、ほんのさっきまで自分に「先生、先生」と馴れ馴れしく付きまとっていたあの低級な文学青年たちの様子を興味深く観察し、彼らと別れたあとに大村や角井からいろいろと参考になる話を聞き出していたところだったのである。
とりわけ角井の、いかにも人間学を気取った説明によれば、朝鮮の青年というものは総じて臆病でひがみっぽく、そのくせ図々しくて派閥争いが大好きな種族だということだった。
そして、まさにその「いい見本」が、田中も東京の頃からよく知っているこの玄竜なのだと角井は語っていたのだ。
だからこそ、東京の著名な作家である尾形という人物が京城(ソウル)に立ち寄った際、大村の世話役で朝鮮の何人かの文人たちを集めて一席設けたことがあった。その宴席で、尾形はわずか三十分も経たないうちに「この玄竜という男の中に、朝鮮人という民族のすべてが凝縮されている」と言い放ったのだ。角井は、さすがは鋭い芸術家の眼力だと感心しきりでそのエピソードを付け加えた。
尾形が「ここに真の朝鮮人称すべき人間がいるぞ!」と叫びながら玄竜を指さしたとき、実際のところ、同席していた本物の朝鮮の文人たちはまったくポカンと口を開けてあぜんとするしかなかった。
しかし、当の玄竜本人はといえば、いかにも誇らしげにニヤニヤとご満悦の表情を浮かべていたのである。
田中は、まだ朝鮮にやって来てから一日二日しか経っておらず、そのうえ毎日のように酒に振り回されてじっくり観察する余裕すらなかった。しかし、「あの尾形先生にも負けないくらい、辛口でユニークな視点から朝鮮についての文章を書き送らなければならない」と心に決めていた矢先だった。そのため、角井から「あれこそが代表的な朝鮮人だ」とお墨付きをもらった玄竜に、こうして思いがけず再会できたことを、田中は内心むしろ少し喜んでいた。
彼は、角井の口から出る悪意に満ちた言葉を、少しも疑うことなくそのまま信じ込んでいた。
「今こそ自分の直感がどれほど鋭いかを示す時が来たぞ」とすっかりその気になって意気込み、今度はまるで自分が朝鮮民族を上から審査するかのような尊大な態度で、自分から先に口を開いた。
「君、日本に帰ってからは、朝鮮語で小説を書いているんだってね?」
「そうさ、その通りだよ!」
玄竜は、まさに待ち構えていたとばかりに有頂天になって大声を張り上げた。
「僕は朝鮮に戻るやいなや、すばらしい傑作を次から次へと発表したんだ!
はじめのうちは、あの野郎どもも、『おい、朝鮮にもあのフランスの天才詩人ランボーみたいなとんでもない天才が現れたぞ!』って、みんな目を飛び出させて驚きやがったのさ!」だが、だんだんと自分の読者が増えて地位も高くなってくると、文壇の連中というのは嫉妬して自分を社会的に葬ろうとさえしたんだ。
大体、君も見て分かるとおり、朝鮮人ってやつはどうしようもないんだよ。
いいかい?
ずる賢くて、そのくせ臆病だから、すぐに徒党を組んで、誰かが偉くなろうとすると引きずり落そうとするんだ」
その時、角井は「ほら見たことか」と言わんばかりに、田中に向かって得意そうに顔をしゃくってみせた。
田中はそれにうなずいた。
「連中は、僕が東京の文壇でみんなの注目を集めてバリバリ活躍していたことすら知らないんだよ」
そして、ちらっと角井の方を盗み見ながら、こう続けたのだ。
「無知だよ、まったく無知だよ!」
内地の人間に直面したときには、特有の卑屈さから朝鮮人の悪口を延々と並べ立てずにはいられない。そうして初めて自分も日本人と対等にものが言えるのだと、本気で信じ込んでいる男――それがこの玄竜だった。
いよいよ玄竜は、炎のような情熱に身を焦がしながら、荒い息づかいで叫んだ。
「僕はこういう救いようのない民族性を考えると、悲しくてたまらないんだ! 田中、おい君、僕のこの気持ちを分かってくれるか!」
彼は声を上げて思いっきり泣こうかと思ったのか、たまらず両手で顔を覆い、肩を激しく震わせてしゃくり上げたのだった。
田中はすっかり胸を打たれ、
「分かるとも、分かるとも」
と、自分も一緒にもらい泣きしそうな気持ちになり、やっぱり朝鮮まで来て本当によかったと感じていた。
日本本土の片隅にくすぶっていては、小さな島国根性の文学しか作れないというのは全くその通りだ。
ここには、大陸の厳しい現実にもがき苦しむ人々の姿がある。
あんな風に箸にも棒にもかからないダメ男だった玄竜でさえ、もっと大きな、本質的なもののために全身を揺さぶって悩み抜いているではないか。
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