初級翻訳・妖怪博士 第30話

妖怪博士

小泉氏はしばらくのあいだ、何を考える力もなく、ぼうぜんと立ちつくしていましたが、やがて、ハッとわれにかえると、いまいましそうにつぶやきました。
「おお、そうだ、わしは今の今まで二十面相と話をしていたのだ。
今の老人こそ、二十面相の変装姿だったにちがいない。
」

名探偵の奇計

 それから二、三十分ののち、小泉信太郎氏は、自邸の書斎の大机の前に腰をかけて、卓上電話の受話器をにぎっていました。
「もしもし、明智探偵事務所ですか、わたしは渋谷の小泉ですが、明智さんはご在宅ですか。
」
 小泉氏と明智探偵とは、同じ社交倶楽部の会員だったものですから、懇意というほどではなくても、二、三度話しあったこともあるあいだがらでした。
そういう関係から、信雄君が少年探偵団に加入したと聞いても、べつに心配もせず、明智探偵を信頼して、黙認していたわけです。
こんなおそろしい事件がおころうとは、夢にも考えていなかったのです。
この事件は警察へ訴えるわけにはいません。
そんなことをすれば、あのすばしっこい二十面相のことですから、たちまち感づいて、どんなおそろしい仕返しをするかしれません。
そこで、小泉氏は、明智探偵に相談することを思いつきました。
明智探偵ならば知りあいでもあり、ことに少年探偵団とは深い関係があるのですから、真剣になって、骨を折ってくれるにちがいないと考えたのです。
やがて、電話口に明智が出たようすです。
「ああ、明智さんですか。
わたし、小泉です。
電話ではなはだ失礼ですが、じつは至急お力をお借りしたい事件がおこったのです。
事件の内容は、電話ではなんですから、お目にかかってくわしく申しあげますが、ともかく、あなたのお力にすがるほかはない重大事件です……。
え、おいでくださる? ありがとう。
ではどうか。
わたしの家は、あなたのところの小林君がよく知っておられるはずですから。
じゃあ、お待ちします。
」
 ガチャンと受話器をかけて、小泉氏はホッとため息をつきました。
明智探偵が、ちょうどうまいぐあいに事務所にいたのは、なによりのさいわいでした。
明智なれば、たくみに賊をあざむいて、信雄も取りもどし、家宝の掛け軸もわたさないですむような、すばらしい手段を考えだしてくれるかもしれません。
小泉氏はそう考えますと、いくらか気も落ちつき、青ざめきっていた顔にも、なんとなく生気がよみがえってくるように見えました。
ところが、小泉氏が電話にむちゅうになっていたあいだに、その書斎の一方にみょうなことがおこっていました。
それはちょうど明智と話をしているさいちゅうでしたが、小泉氏の横手のガラス窓の外から、しらが頭に白いあごひげを生やした怪しげな老人の顔が、じっと室内をのぞきこんでいたのです。
窓の外は広い庭になっているのですが、いつのまに、どうしてしのびこんだのか、さいぜんの怪老人、つまり二十面相が、その庭から、小泉氏の電話をかけている姿を、まるで獲物をねらう蛇のような、執念ぶかい目つきで、じっと見つめていたのです。
神社の森の中で、立ちさったように見せかけて、じつは小泉氏のあとをつけてきたのにちがいありません。
そして、小泉氏が受話器をかけるのを見ますと、ヒョイと首を引っこめて、庭のやみの中へ姿を消してしまいました。
むろん小泉氏は、それを少しも気づかなかったのです。
二十面相の怪老人は、それから、庭の木立ちの間をくぐって、裏の塀ぎわにたどりつき、まるでサルのような身軽さで、塀を乗りこえました。
塀の外は人通りもないさびしい裏町です。
二十面相は何食わぬ顔で、その町を通りすぎ、にぎやかな商店街のほうへと急ぎました。
そして、そこの四つかどの公衆電話にとびこみますと、いきなり受話器をつかんで、明智探偵事務所の番号をまわしました。
おや、これはどうしたというのでしょう。
二十面相が明智探偵に電話をかけるなんて、思いもおよばぬへんてこなしわざではありませんか。
いったいこれは何を意味するのでしょう。
怪盗は、どんな悪だくみを考えだしたのでしょう。
なんだかひどく気がかりではありませんか。
それはさておき、お話をもとにもどして、小泉邸では、その夜どんなことがおこったか、まずそれを記さねばなりません。小泉氏が明智探偵に電話をかけてから、二十分ほどがたったころです。門のところに自動車の止まる音がして、いつ見てもかっこいい黒いスーツ姿の名探偵が、小泉の家にやってきました。
待ちかまえていた小泉氏は、自分で玄関まで出むかえて、明智を奥の座敷へ案内しました。そして、ほかの召し使いたちを遠ざけてから、これまでのくわしい事情を話聞かせるのでした。
話をすっかり聞きおわった明智探偵は、しばらくのあいだ、何も言わずに腕を組んで深く考え込んでいましたが、やがて顔を上げると、何かすばらしい作戦が思い浮かんだのか、とても頼もしい口調でこう答えました。
「小泉さん、そのお話、しかと引き受けました。今度こそ、あのやつの鼻をあかしてやろうじゃありませんか。息子さんの信雄くんを取りもどすのはもちろんのこと、雪舟の掛け軸も絶対にわたさず、そのうえ、あいつをひっとらえてみせますよ。
じつをいうと、ぼくはこういう事件が起きるのを待ちかまえていたのです。二十面相には、これまでにもうらみがたくさんたまっていますからね。今回の事件は、ぼくにとって願ってもないチャンスなんです。
それに、信雄くんが少年探偵団に入っていたからこそ、こんな目にあってしまったわけですから、ぼくにも十分な責任があります。必ずぶじに取りもどしてみせますよ!」
「ありがとうございます! それを聞いて、わたしもようやく安心しました。しかし、いったいどうやって信雄を取りもどすのですか? あなたには、二十面相のかくれががどこだかわかっているのですか?」
「いや、それはぼくにもまったく見当がつきません。」
「では、どうやって……? わたしには、あなたのお考えがさっぱりわかりません。」
「あいつは、雪舟の掛け軸と引きかえに、信雄くんを返すと言っているのでしょう?」
「そうですよ! ですから、あの絵をわたさないかぎり、信雄を取りもどす方法はないように思えますが……」
「だからこそ、その掛け軸を相手にわたしてやるのさ。」
「エッ、なんですって!? それでは、大切な家宝をあきらめろとおっしゃるのですか?」
「いや、本物の雪舟の掛け軸をわたすわけではありませんよ。それによく似た、別の掛け軸でいいんです。お宅には、たとえ賊にやったとしても、それほど惜しくないような掛け軸がほかにもあるでしょう? その中から、雪舟の掛け軸によく似たものをえらんで、替え玉に使うのです。」
「なるほど、それはうまい考えですね。しかし、あいつがそんな手に引っかかるでしょうか? 中身をちゃんと確かめないで受け取るような、そんなドジをあいつが踏むでしょうかね?」
「ハハハ……、ただ普通にわたしたのでは、もちろんすぐにバレてしまいますよ。ちょっとした手品を使うのです。二十面相もなかなかの手品使いですが、ぼくもあいつに負けてはいませんよ。

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