お前、考えてみたか? どうなんだよ」
「……うーん」
孫七郎は、名残惜しそうに二本の矢の方へとチラチラ視線を送りながら、こくこくと頷きました。
「考えてみたさ。だがな石原寸度右衛門、あれはなかなか大きな問題だぞ」
「なにが大きな問題だ! たかがお嫁さんをもらうかどうかなんて、世間じゃありふれた話じゃないか」
「お前はむやみに『嫁をとれ、嫁をとれ』と言うけれど、よくよく考えてみるとだな、嫁をとるということは、突き詰めて言えば妻を持つということだ。つまり言い換えれば、独り身じゃなくなるってわけだろ」
「そんなこと、百も承知だよ!」
「いや、そうじゃない。これはそんな単純な話じゃないんだぞ。たとえばここに矢が一本あるとするだろ」
そう言って彼は、寸度が押しやった矢をまた手元に引き寄せました。
「これを柿ノ木孫七郎とする。いいか石原寸度右衛門、そこへだな、もう一本、この矢を持ってきたとするだろ……」
「なんでそういちいち矢にちょっかい出すんだよ!」
寸度はその二本の矢をひったくると、部屋の隅へ放り投げました。そして、むずと体を起こして言い放ちました。
「はっきり言うが、お前はお嫁さんをもらわなきゃだめだ! いいか、嫁をもらうんだ! 妻を持って、しっかり身を固めるんだ! わかったな!」
「お前ってやつは、本当に堪え性のない男だなあ石原寸度右衛門。もう怒っちまったのか?」
「くだらないことは言うな! 今日は俺が晩飯をごちそうするから、うちに来い。そのときまた、よくわかるように言い聞かせてやるからさ。いいか、晩飯だからな!」
寸度はたたきつけるような口調でそう言うと、急いで部屋を出て行ってしまいました。
どうにかして孫七郎を世間に認めさせたい――それが寸度の強い願いでした。
孫七郎は不運な巡り合わせのせいで、二十七歳にもなるのに、まだ一度も本当の戦場に出たことがありませんでした。いつもお城の留守番ばかりに回されていました。ふつうの男なら、是が非でも「一度や二度は出陣させてください!」と願い出るところでしょうが、彼は命じられれば命じられたとおり、おっとりと、何の不平も言わずに与えられた役目をコツコツと守り続けています。寸度にはそれが歯がゆくて仕方がありませんでした。なんとかして彼の本当のすごさを世間に知らしめ、世間の冷ややかな目玉をひっくり返してやりたかったのです。「なるほど、あいつはただ者ではなかったのか!」と、周囲に感嘆の声をあげさせてやりたかったのです。
そこで寸度が思いついたのが、「お嫁さんをもたせること」でした。妻をめとれば、人の気構えも変わるだろう。そして子どもでも生まれたら、少しは出世欲のようなものも芽生えるに違いありません。「これはどうしても結婚させなくてはならない!」と、寸度は心に決めていたのです。
その日の日暮れ時、孫七郎はいつものゆったりとした足取りで、寸度の家やって来ました。
寸度右衛門は酒井家でも番頭クラスの地位にあり、家来も十人、馬も三頭飼うほどの立派な暮らしをしていました。やって来た孫七郎は、なぜか玄関には上がらず、建物の脇を通って厩(うまや)の前へとまわっていきました。
そして、そこに繋がれている三頭の馬のなかでも、ひと際すばらしい名馬だと思える「背黒(せぐろ)」の馬の前に立ち止まると、惚れ惚れとした様子ですっかり心を奪われ、じっと見つめ始めたのです。
もし石原家の家来が通りかからなかったら、彼はたぶん、そのまま何時間でもそうしていたことでしょう。
「こりゃあ、柿ノ木殿ではありませんか!」
通りかかった若い家来がびっくりして声をかけました。
「主人がさきほどからお待ちかねでございますが、いったいどうなすったのでございますか?」
孫七はゆっくりと振り返りました。そして、あまりの馬の素晴らしさに胸を打たれたという顔つきで、「いい馬だな……」とぽつりと呟くと、いかにも心残りだというふうに、のっしのっしと厩の前を離れていきました。
寸度はすでに膳(ぜん)を目の前にして座っていました。
「どうしたんだ、待ちくたびれたぞ。いま迎えをやろうかと思っていたところだ。まあいいから座れ!」
孫七郎が席につくと、寸度はすぐに「酒を持ってこい!」と声を張り上げました。
もう準備はできていたとみえて、すぐにふすまが開き、一人の若い娘が徳利(とっくり)を捧げて部屋に入ってきました。しもぶくれのふっくらとした、つまんでみたくなるような丸みを帯びたあごの、愛くるしい顔立ちである。体つきも柔らかくすんなりとした線で包まれ、白い素足の爪先が桃色に潤んでいる。美人というわけではないが、美人を十人集めた中に入れても一番にかわいいと思わせるような種類の娘だった。
寸度はじっと孫七郎の様子をうかがっていた。孫七郎は娘を見ていた。それがうっとりとした、どこか魂の抜けたような目つきだった。
……こいつ、気に入ったな。寸度はそう察して、思わずニヤリと微笑んだ。
娘はぽっと頬を赤くし、重そうな髪をふかく垂らして顔を伏せていた。
孫七郎のうっとりとした視線がいつまでもじっと貼りついているので、目のやり場もないし、まぶしくてしかたがないのである。……それにしてもまあ、なんて遠慮のない見方をするんだろう。娘は顔を赤らめつつ、少しむっとした。
彼女は寸度の知り合いである田井六郎兵衛(たいろくろべえ)という者の妹で、名は「お初(はつ)」といった。孫七郎のことは顔こそ合わせたことがなかったが、いろいろと噂には聞いていたし、今夜の夕食の給仕を頼まれた意味もだいたい分かっていた。
だがそれにしても……あんなに失礼に見つめるなんてことがあるだろうか、あんなにまじまじとした目で。
そう思うと、最後には恥ずかしさで体が縮こまるようにさえ感じられてきたのだ。
孫七郎は、手に持ったお酒の杯さえ忘れているようだったが、やがて大きなため息といっしょに、「実に、すばらしい」とつぶやいた。
三
その翌日、石原寸度右衛門はすぐに話をまとめるために孫七郎の家を訪ねた。
彼は昨日と同じように、矢を目の前に並べて考え込んでいた。
違っているのは、二本の矢が四本に増えていることだけで、座っている場所も、腕組みをした格好も、昨日からずっとそのままそこにいたかのように一ミリも変わっていなかった。寸度はあきれて目を丸くした。
「またそんな面倒くさいことをやっているのか」
「今度は(数を)倍にしてみたんだがね」と、彼は真剣な口調で言った。「つまり二を四にしてみたんだが、というのは、四を四で割ると……」
「まあいいから俺の話を聞け!」寸度はそんなことはお構いなしに、そこにあった矢を押しやり、どっかりと腰を下ろすと、孫七郎の顔を真っ正面からにらみつけた。
そうやってしばらくにらみつけてから、やがてニッと笑った。
すると孫七郎も何か納得したとみえ、大きな目を細くしてニヤリと笑い返した。寸度は「へっへっへ」と膝を揺すった。
「どうだ孫七、気に入ったかい? 昨日の娘さん、お気に召したか? どうなんだ」
「いやあ、なんというか……」孫七郎は喉に何か詰まったような声を出し、「いやあ、なんとも……」と言葉を濁した。
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