初級翻訳・山彦乙女 第26話

山彦乙女

徳川幕府の権威がだんだんと揺るぎないものになり、これから先ほぼ百年は平和が続くだろうという見通しが立ったのと同時に、自分の主君を持たない武士たちや、お家取り潰し(改易)によって浪人となった人々が、新しく仕官したり出世したりするチャンスがどんどん少なくなってしまった。
理由はほかにもいろいろあるだろうが、こうした行き場のない浪人たちをうまく煽動して、由井正雪という町にいた軍学者が、社会の仕組みをひっくり返そうと謀反を企てたのだ。
その計画は事前に明るみに出てしまい、仲間たちはあえなく罪に問われて命を落としたのだが、その企みの全貌というものは、当時の幕府の方針として厳重に隠され、詳しいことはほとんど世間に知らされなかったのである。
「謀反といってもそんなに大した規模のものじゃないし、実際に成功する可能性もあまり認められない程度のものなんだけどね」と、主馬は説明した。「ただそこに、一つだけ、疑問があるんだ。それは一味の資金関係についてさ」
「おれが聞いて、面白いような話なのか?」
「聞くだけなら、聞いて損はないと思うけどね」
そこへ、おなごの「なお」が忙しそうに酒の膳を運んできた。
主馬は、お酌をしようと座ろうとする二人を下がらせると、半之助と自分の盃に手早く酒を注ぎながら、話を続けた。
「計画の規模としてはシンプルなものなんだけど、集まった連中が浪人たちだし、事前の準備には相当な金が使われているんだ。その肝心の資金がどこから出ているのか、それがはっきりわかっていないのさ」
「だけど、丸橋なんとかっていう男は、大きな槍の道場主だったんじゃないのか? それに、おれなんかはよく知らないけど、紀伊家だか尾州侯だかがバックに……」
「いや、そんな単純なもんじゃないんだ」
口まで持っていった盃をそのままに、主馬は首を横に振って言った。
「丸橋のやつは大の浪費家で、むしろ他人に生活の面倒まで見てもらっていたらしい。紀州家が後ろ盾だったっていうのはまったくのデタラメさ。尾州家に関しては、一味の連中が勝手に利用しようとしただけなのさ。というのも、尾州家の初代である義直という人は、三代将軍・家光公と仲が良くなかったんだ。いろいろと不仲な噂があって、幕府との関係もしっくりいっていなかった。その義直公は寛永十四年に亡くなっているんだけど、この不仲の噂はかなり広く知られていた。正雪はその点に目をつけたんだよ。だから、決起する時に使う道具の二つや三つに尾州家の家紋をわざと付けたりしたんだけど、もちろん、実際の資金源のほうは――」
「――じゃあ、その資金はいったいどこから……」
「主謀者の正雪が自害してしまったから、徹底的な真相まではわからなかったみたいなんだ。だけど、俺が調べていた古い記録の中に、その資金を出した人物と思われる証拠が、偶然にも見つかったんだよ」
そう言って主馬は、懐から紙入れを取り出し、その中から一枚の小さな紙片を抜き出して広げた。
「これを見てくれ」
その紙片には、黒い菱形を三つ組み合わせた、まるで翼を広げた鳥のような形の紋章が描かれていた。
「どこかで見たことがあるな」
半之助は目を細めた。
「だけど、これがどうしたっていうんだ?」
「正雪の隠れ家にいた女の家から見つかった、証拠品の一つなんだ。そこには、富士川をさかのぼる旅の記録と、あるまとまった金額を受け取ったことを示す控えのようなメモがあってさ、そこにこの紋章が押してあったんだよ」
「その金額っていうのは、どれくらいなんだ?」
「単位があいまいに書いてあるんだけど、どうやら万両以上の大金らしい。前後の二回くらいに分けて渡されたようで、しかもまだいくらでも引き出せるようなことが書いてあるんだ」
「ああ、そうか……」
話を聞きながら、紙片の黒い菱形をじっと眺めていた半之助は、ふとそう呟いて、その紋章を指さした。
「わかったぞ、この紋の正体がな」
「気づいたのかい?」
「これは築地にある、いつか一緒に行った『丸茂』の家の、釘隠しについていた金具と同じだ」
「そのとおりさ」
「それだけじゃないぞ」
半之助は手元の団扇をピタリと置いた。
「――というと?」
「その前に、もう一度……」
そう言いかけて、半之助はちょっと言葉につまった。
丸茂の家で釘隠しの金具を見たとき、それが人生で初めて見たわけではなく、前にもどこかで見た覚えがあると感じていたのだ。
たしかに、どこかで見たことがある。
それも、かなり強い印象とともに……そう考えていたのだが、今ようやく、そのときの記憶がはっきりとよみがえってきたのだった。
それは山村座の、あの茶屋でのことであった。
今日も主馬が来るまで、彼はそこにゴロゴロと寝そべっていたが、あのときも同じように横になっていたのだ。
そして、一つ部屋を挟んだ向こう側の座敷で、若い女がすっぽんぽんになり、三人の男の召使に全身を拭かせている場面があった。
そのとき、手拭いをゆするのに使っていた蒔絵(まきえ)の半手拭(はんてぬぐい)に、その不思議な紋様がついていたのだ。
――たしかに、あれは同じものだ。
見慣れない形をしているから、見間違えるはずがない。
――実はな。
と言いかけようとしたが、そこでまたふと、あの半手拭の紋を見たときも、さらにそれより前にどこかで見たような気がしたことを思い出した。
――そういえば、あのときも思ったんだ。どこかで見た覚えがあるって……。
そう気づいたものの、若い女性の裸を見たという恥ずかしさがよぎり、半之助はあいまいに言葉を濁したのだった。「いや、よく思い出せないけれど、そうすると、由井正雪(ゆいしょうせつ)に資金を出したという人間と、丸茂(まるも)の家とのあいだに、なにか繋がりでもあるっていうのかい?」
「証拠はないさ。だけど、とにかくこの紋様がめずらしいし、丸茂にいる女主人というのが、どこの何者なのかまだはっきりしていない。このあいだ見たとおり、柳沢(やなぎさわ)の一派と深い関係があるんだ」
「それは変だな。その順番でいくと、柳沢も正雪みたいに、幕府に対して謀反(むほん)でも企(くわだて)ている、ということになりそうじゃないか」
「もしそうだとしたら、どうだい?」
「別にどうってことはないさ。おれには縁もないし、興味もないことだね」
「柳沢の一派は、いま盛んに悪あがきを始めているんだ」主馬(しゅめ)はかまわずに続けた。「吉保(よしやす)その人がどこまで関わっているのかはわからないけれど、身のまわりにいる連中は、ほとんど謀反を企てるのと変わらない、実際に法律を犯すようなことをやっているし、いまもまさに実行しているところなのさ」
「すまないけれど、話を簡単にしてくれよ」
「もちろん要点だけ言うけれど、やつらのそういう不法な企てに、丸茂の女主人というのが、相当重要な関係を持っているらしいんだよ」
「――いったい、なんのためにさ?」
「それを知りたいのさ。

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