騒々しいじゃありませんか。どこに賊がいるんです。夢でもご覧になったのでしょう」
探偵は身動きもせず、叱りつけるように言うのでした。
なるほど、今のは夢か、それとも幻だったのかもしれません。いくら見回しても、黒装束の男などどこにもいやしないのです。老人は少し決まりが悪くなって、無言のままもとの姿勢にもどり、また耳をすましましたが、するとさっきと同じように、頭の中がスーッとからっぽになって、目の前にもやがむらがりはじめるのです。
そのもやが少しずつ濃くなって、やがて黒雲のように真っ暗になってしまうと、体が深い深い地の底へでも落ち込んでいくような気持ちがして、老人はいつしかウトウトと眠ってしまいました。
どのくらい眠ったのでしょうか。そのあいだじゅう、まるで地獄へでも落ちたような恐ろしい夢ばかり見つづけていましたが、ふと目を覚ますと、びっくりしたことにはあたりがすっかり明るくなっているのです。
「ああ、わしは眠ったんだな。しかし、あんなに気を張りつめていたのに、どうして寝たりなんぞしたんだろう」
左門老人はわれながら不思議でしかたがありませんでした。見ると、明智探偵は昨夜のままの姿で、まだスヤスヤと眠っています。
「ああ、助かった。それじゃ二十面相は、明智探偵におそれをなして、とうとうやってこなかったとみえる。ありがたい、ありがたい」
老人はホッと胸をなでおろして、静かに探偵をゆり起こしました。
「先生、起きてください。もう夜が明けましたよ」
明智はすぐ目を覚まして、
「ああ、よく眠ってしまった……。ハハハ……、ごらんなさい。なにごともなかったじゃありませんか」
といいながら、大きな伸びをするのでした。
「見張り番の刑事さんも、さぞ眠いでしょう」「もう大丈夫ですから、ご飯でも差し上げて、ゆっくり休んでいただこうじゃありませんか」
「そうですね。では、この戸を開けてください」
老人は、言われるままに懐から鍵を取り出して締め具を外し、ガラガラと板戸を開きました。ところが、戸を開けて部屋の中を一目見たかと思うと、老人の口から「ギャーッ!」という、まるで締め殺されるような叫び声がほとばしったのです。
「どうしたんです。どうしたんです!」
明智も驚いて立ち上がり、部屋の中を覗き込みました。
「あ、あれ、あれ……」
老人は口を利く力もなく、妙な片言を言いながら、震える手で室内を指差しています。見ると、ああ、老人の驚きも決して無理ではなかったのです。部屋の中の古名画は、壁にかけてあったのも、箱に収めて棚に積んであったのも、一つ残らず、まるでかき消すようになくなっているではありませんか。番人の刑事は、畳の上に打ちのめされたように倒れて、なんというざまでしょう。グウグウといびきをかいているのです。
「せ、先生、ぬ、ぬ、盗まれました! ああ、わしは、わしは……」
左門老人は、一瞬で十年も年を取ったようなすさまじい顔つきになり、明智の胸ぐらをつかまんばかりです。
悪魔の知恵
ああ、またしてもありえないことが起こったのです。二十面相というやつは、人間ではなくて、得体の知れないお化けです。まったく不可能なことを、こんなにやすやすとやってのけるのですからね。明智はツカツカと部屋の中へ入っていって、いびきをかいている刑事の腰のあたりを、いきなり蹴飛ばしました。賊に出し抜かれて、もうすっかり腹を立てている様子でした。
「おい、おい、起きたまえ。ぼくは君に、ここでお休みくださいと頼んだんじゃないんだぜ。見たまえ、すっかり盗まれてしまったじゃないか!」
刑事は、やっと体を起こしましたが、まだ夢うつつのありさまです。
「ウ、ウ、何を盗まれたんですって? ああ、すっかり眠ってしまった……。おや、ここはどこだろう」
寝ぼけた顔で、キョロキョロと部屋の中を見回す始末です。
「しっかりしたまえ。ああ、わかった。君は麻酔剤でやられたんじゃないか。思い出してみたまえ、ゆうべどんなことがあったか」
明智は刑事の肩を掴んで、乱暴に揺さぶるのでした。
「こうっと、おや、ああ、あんた明智さんですね。ああ、ここは日下部の美術城だった。しまった! ぼくはやられたんですよ。そうです、麻酔剤です。ゆうべ真夜中に、黒い影のようなものが、ぼくの後ろへ忍び寄ったのです。そして、そして、何か柔らかいいやな匂いのするもので、ぼくの鼻と口をふさいでしまったのです。それっきり、それっきり、ぼくは何もわからなくなってしまったんです」
刑事はやっと目の覚めた様子で、さも申し訳なさそうに、空っぽの絵画室を見回すのでした。
「やっぱりそうだった。じゃあ、表門と裏門を守っていた刑事諸君も、同じ目に遭っているかもしれない」
明智は独り言を言いながら、部屋を駆け出していきましたが、しばらくすると、台所のほうで大声で呼ぶのが聞こえてきました。
「日下部さん。ちょっと来てください!」
何事かと、老人と刑事とが声のするほうへ行ってみますと、明智は下男部屋の入り口に立って、その中を指差しています。
「表門にも裏門にも、刑事君たちの影も見えません。そればかりじゃない。ご覧なさい、かわいそうに、この始末です」
見ると、下男部屋の隅っこに、作蔵じいやとその奥さんとが、高手小手に縛られ、猿轡(さるぐつわ)まで噛まされて転がっているではありませんか。もちろん賊の仕業です。邪魔立てをしないように、二人の召使いを縛り付けておいたのです。
「ああ、なんということじゃ。明智さん、これはなんということだ!」
日下部老人は、もう半狂乱の体で明智に詰め寄りました。命よりも大切に思っていた宝物が、夢のように一夜のうちに消え失せてしまったのですから、無理もないことです。
「いや、なんとも申し上げようもありません。二十面相がこれほどの腕前とは知りませんでした。相手を侮っていたのが失策でした」
「失策? 明智さん、あんたは失策で済むじゃろうが、このわしは、いったいどうすればよいのです……名探偵、名探偵と評判ばかりで、なんだこのざまは……」
老人は真っ青になって、血走った目で明智を睨みつけて、今にも飛びかからんばかりの剣幕です。明智は恐縮した様子でうつむいていましたが、やがてヒョイと顔を上げたとき、その表情を見て誰もが驚きました。
なんと、その名探偵は笑っているのです。
笑みは顔全体に広がり、しまいには、おかしくてたまらないというように、大きな声を上げて笑い出しました。
日下部老人は、あっけにとられてしまいました。
明智は賊に一杯食わされた悔しさで、ついに気が触れてしまったのでしょうか。
「明智さん、あなた一体何がおかしいのです。
これ、何がおかしいのかと聞いているのですよ!」
「ワハハハ……、おかしいですよ。
名探偵・明智小五郎、なんとも情けないですね。
まるで赤子の手をひねるように、いとも簡単にやられてしまったじゃありませんか。
二十面相というやつは実に大したものだ。
ぼくはあいつを心から尊敬しますよ」
明智の様子は、ますますおかしなことになっています。
「おいおい、明智さん、どうしたのですか。賊を褒め称えている場合ではないでしょう。
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