きみの正体を知りながらノコノコここまでやってきたぼくだもの、今きみを捕らえる気なんか少しもないのだよ。ぼくはただ、有名な二十面相君と少し話をしてみたかっただけさ。なあに、きみを捕まえることなんか急ぐ必要はない。博物館の襲撃まで、まだ九日間もあるじゃないか。まあゆっくり、きみの無駄骨折りを拝見するつもりだよ」「ああ、さすがは名探偵だねえ。太っ腹だねえ。ぼくは、きみにほれこんでしまったよ……。ところでさ、きみのほうでぼくを捕らえないとすれば、どうやら、ぼくのほうで、きみをとりこにすることになりそうだねえ」
二十面相はだんだん、声の調子を凄みのあるものに変えながら、ニヤニヤと薄気味悪く笑うのでした。
「明智君、怖くはないかね。それともきみは、ぼくが無意味にきみをここへ連れ込んだとでも思っているのかい。ぼくのほうに、なんの用意もないと思っているのかね。ぼくが黙って、きみをこの部屋から外へ出すとでも、勘違いしているのじゃないのかね」
「さあ、どうだかねえ。きみがいくら出さないと言っても、ぼくは無論ここを出ていくよ。これから外務省へ行かなければならない。忙しい体だからね」
明智は言いながら、ゆっくり立ちあがって、ドアとは反対のほうへ歩いていきました。そして、なにか景色でも眺めるように、のんきらしく、ガラス越しに窓の外を見やって、軽くあくびをしながら、ハンカチを取り出して、顔を拭っております。そのとき、いつの間にベルを押したのか、先ほどのがんじょうなボーイ長と、同じく屈強なもうひとりのボーイとが、ドアを開けてツカツカとはいってきました。そして、テーブルの前で、直立不動の姿勢をとりました。
「おい、おい、明智君、きみは、ぼくの力をまだ知らないようだね。ここは鉄道ホテルだからと思って安心しているのじゃないかね。ところがね、きみ、たとえばこの通りだ」
二十面相はそう言っておいて、ふたりの大男のボーイのほうを振り返りました。
「きみたち、明智先生にごあいさつ申し上げるんだ」
すると、ふたりの男は、たちまち二匹の野獣のようなものすごい形相になって、いきなり明智を目がけて突き進んできます。
「待ちたまえ、ぼくをどうしようというのだ」
明智は窓を背にして、キッと身構えました。
「分からないかね。ほら、きみの足元をごらん。ぼくの荷物にしては少し大きすぎるトランクが置いてあるじゃないか。中は空っぽだぜ。つまりきみの棺桶なのさ。このふたりのボーイ君が、きみをいま、そのトランクの中へ埋葬しようってわけさ。ハハハ……。さすがの名探偵も、ちっとは驚いたかね。ぼくの部下の者が、ホテルのボーイに入り込んでいようとは少し意外だったねえ。いや、きみ、声を立てたって無駄だよ。両隣とも、ぼくの借り切りの部屋なんだ。それから念のために言っておくがね、ここにいるぼくの部下はふたりきりじゃない。邪魔の入らないように、廊下にもちゃんと見張り番がついているんだぜ」
ああ、なんという不覚でしょう。名探偵は、まんまと敵の罠に落ちたのです。それと知りながら、好んで火の中へとびこんだようなものです。これほど用意が整っていては、もう逃れる術はありません。血の嫌いな二十面相のことですから、まさか命を奪うようなことはしないでしょうけれど、なんといっても、賊にとっては警察よりも邪魔になる明智小五郎です。トランクの中へ閉じ込めて、どこか人知れぬ場所へ運び去り、博物館の襲撃を終えるまで、とりこにしておこうという考えに違いありません。
ふたりの大男は問答無用とばかり、明智の身辺に迫ってきましたが、今にも飛びかかろうとして、ちょっとためらっております。名探偵の身に備わる威力に打たれたのです。でも、力ではふたりにひとり、いや、三人にひとりなのですから、明智小五郎がいかに強くても、かないっこはありません。ああ、彼は帰朝そうそう、早くもこの大盗賊のとりことなり、探偵にとって最大の恥辱を受けなければならない運命なのでしょうか。ああ、本当にそうなのでしょうか。
しかし、ごらんなさい、われらの名探偵は、この危急に際しても、やっぱりあのほがらかな笑顔を続けているではありませんか。そして、その笑顔が、おかしくてたまらないというように、だんだん崩れてくるではありませんか。
「ハハハ……」
笑い飛ばされて、ふたりのボーイは、キツネにでもつままれたように口をポカンと開けて、立ちすくんでしまいました。
「明智君、空威張りはやめたまえ。何がおかしいんだ。それともきみは、恐ろしさに気でも違ったのか」
二十面相は相手の真意を測りかねて、ただ毒づくほかはありませんでした。
「いや、しっけい、しっけい、つい、きみたちの大真面目なお芝居が面白かったものだからね。だが、ちょっときみ、ここへ来てごらん。そして、窓の外をのぞいてごらん。妙なものが見えるんだから」
「何が見えるもんか」「そちらはプラットホームの屋根ばかりじゃないか。へんなことを言って時間を稼ごうなんて、明智小五郎も、もうろくしたもんだねえ」
でも、賊はなんとなく気がかりで、窓のほうへ近寄らないではいられませんでした。
「ハハハ……、もちろん屋根ばかりさ。だが、その屋根の向こうに変なものがいるんだ。ほらね、こちらのほうだよ」
明智は指さしながら、こう続けました。
「屋根と屋根とのあいだから、ちょっと見えているプラットホームに、黒いものがうずくまっているだろう。子どものようだね。小さな望遠鏡で、しきりとこの窓を眺めているじゃないか。あの子ども、なんだか見たような顔だねえ」
読者諸君は、それがだれだか、もうとっくにお察しのことと思います。そうです。お察しのとおり、明智探偵の名助手・小林少年です。小林君は例の七つ道具の一つ、万年筆型の望遠鏡でホテルの窓をのぞきながら、何かの合図を待ち構えている様子です。
「あ、小林の小僧だな。じゃあ、あいつは家へ帰らなかったのか」
「そうだよ。ぼくがどの部屋へ入るか、ホテルの玄関で問い合わせて、その部屋の窓を注意して見張っているように言いつけているのだよ」
しかし、それが何を意味するのか、賊にはまだのみ込めませんでした。
「それで、どうしようっていうんだ」
二十面相はだんだん不安になりながら、恐ろしい形相で明智に詰め寄りました。
「これをごらん。ぼくの手をごらん。きみたちがぼくをどうこうすれば、このハンカチがヒラヒラと窓の外へ落ちていくのだよ」
見ると、明智の右の手首が、少し開かれた窓の下から外へ出ていて、その指先に真っ白なハンカチがつままれています。
「これが合図なのさ。すると、あの子どもは駅の事務室へ駆け込むんだ。それから電話のベルが鳴る。そして警官隊が駆けつけて、ホテルの出入り口を固めるまで、そうだね、五分もあれば十分だとは思わないかね。ぼくは五分や十分、きみたち三人を相手に抵抗する力はあるつもりだよ。ハハハ……、どうだい、この指をパッと開こうか。
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