初級翻訳・新西遊記 第3話

久生 十蘭

 ヨーロッパのカロリナ刑法は、閉じ込めて餓死させる(お腹を空かせて死なせる)ためのものでしたが、チベットのやり方は違います。餓死させる部分を取りのぞき、代わりにドイツのハンブルグで行われていた鎖の拷問や、スペインの体を締め上げる拷問を組み合わせたようなものだったのです。

 これが、チベットの人たちが残酷な工夫をすることを「なまけて」いるときの結果です。こんなひどい状態で、短いときでも五年、長いときは二十年もの間、放っておかれるのです。

 閉じ込められた人の、押しつぶされた体の痛みは、言葉では言い表せないほどだったでしょう。

 お腹を空かせ、凍え、のろわれたような苦しみを味わいながら、どうして生きていられるのでしょうか。

 普通の考えではわかりませんが、ここにもチベットの人たちの、行き届いた「残酷な技術」が隠されているのです。

 実は、そんな不幸な人たちの命の糸が切れないように、寿命が尽きるまでゆっくりと生き続けさせる「命をのばす薬」のようなものが発明されていたのです。のどがカラカラに乾いたときに、水に混ぜてこっそりと飲ませるのでした。

 自分で命を絶とうとして食べ物を拒む人でも、水だけは飲まずにいられないという、人間の本能を利用しているのです。本人は「こんなにひどい目に遭っているのに、どうして死ねないんだろう?」と不思議に思い、周りの人は「こんな状態でよく生きているものだ」と驚くのでした。

 同じころ、日本が江戸時代だった一七一九年にチベットに入った、フランシスコ・デラ・ペンナというキリスト教の宣教師がいました。彼は、ラマ教の本当の姿を初めてヨーロッパに紹介した人です。彼は、チベットの王様である「ラマ法皇(ほうおう)」の悲しい境遇や、大臣たちが堂々と王様を殺そうとする恐ろしい習慣について、詳しく報告しています。

 ラマ教は昔、古い教え(紅教)と新しい教えに分かれました。モンゴルの王様だったフビライ・ハーンが、この新しい教えを信じるようになり、パスパというお坊さんにチベットの政治を任せたのが始まりです。それ以来、代々のお坊さんのリーダーが、国の重要な仕事に関わるようになりました。

 その後、五代目のリーダーが、宗教と政治を一つにまとめ、お坊さんのトップでありながら国の王様でもある「ダライ・ラマ一世」となりました。そして別の場所に「パンチェン・ラマ」という副王を置いて、チベットという国を作りました。しかし、一七二〇年に国の中で争いが起きると、中国(清)の皇帝が「争いを静めるため」という理由で兵を出し、政治に口を出すようになりました。そして間もなく、チベットは中国の支配下に入ってしまったのです。

「チベットの仏教には、人は死んでも何度も生まれ変わるという『輪廻(りんね)』の教えなど、とても深くて不思議な考えがたくさんあります。その教えによると、王様である法皇は『観音(かんのん)さま』が姿を変えたものだとされています。法皇が亡くなると、すぐにどこかの赤ちゃんとして生まれ変わり、また新しい法皇として位を継ぐことになっているのです」法皇の中には、死ぬ間際に「次はどこの村の誰々の子として生まれるから、その子を私だと思って迎えなさい」と、あらかじめ準備万端で遺言を残す人もいます。しかし、そうでない場合は、法皇が息を引き取ったその瞬間に生まれた子供たちを、みんなで手分けして探し回ります。

もし候補が一人だけであればそれに越したことはありませんが、三人も四人も見つかった場合は、その子たちを全員候補者として指定し、五歳になるのを待ちます。そして、子供たちの名前を書いた紙を繭玉(まゆだま)の中に封じ込めて金ピカの甕(かめ)に入れ、督弁政務使という役人が象牙の箸を使って、その中から一つだけ繭玉をつまみ出すのです。

そうして選ばれた子供が、次の法皇となります。

法皇選びはチベットにおいて最も厳粛な儀式とされていますが、だからといって、裏での駆け引きが一切ないとは断言できません。

自分の子供が法皇に選ばれれば、一族はとてつもなく豊かになれるため、政務使や大臣たちに莫大なワイロを贈って、なんとか自分の子供の名前を引き当ててもらえるよう奔走するのです。

幼い王が成人するまでは副王が摂政(せっしょう)を務めますが、その十数年間は、閣僚や高官たちにとって、何よりもありがたい「稼ぎ時」となります。

副王には実質的な権力が与えられていないため、彼らは自分たちの都合のいいように政治を行い、思う存分に私腹を肥やすことができるからです。

そのため、彼らの願いは「法皇が永久に五歳の子供のままでいてくれること」か「知能が低く、何もわからないままでいてくれること」であり、賢くて優秀なタイプを何よりも嫌います。

実際、三代から七代まで五人の法皇のうち、二十五歳まで生き延びた者は一人もいませんでした。それらはすべて、巧妙な方法で暗殺されたのだと信じられています。

八代目の法皇が急病で床に伏したとき、私は立ち会う機会を得て、法皇宮で医官たちがどのように治療にあたるのかを目の当たりにしました。その最期を迎えるまでの様子は、世にも恐ろしい暗殺の手口を紹介する意味でも、詳細に書き残す価値があるものです。

ダライ・ラマ八世は、非常に才能豊かで聡明なうえ、めったにないほど健康な体の持ち主でした。二十三歳になるまで、病気らしい病気をしたことなど一度もなかったのです。

しかしその時は、高熱が出て、大量の汗をかき、激しく咳き込むたびに体が少し痙攣(けいれん)していました。

風邪をこじらせて気管支炎や喘息のような状態になっていましたが、手早く適切な処置をすれば、四、五日で治る程度のものだったのです。

ところが、治療はまず「騒がしい祈祷(きとう)」から始まりました。

ラマ教の信仰では、病気はすべて悪魔や厄鬼(やっき)、死霊などが仕業だとされています。悪魔を追い払ってからでなければ、どんなに素晴らしい名薬を飲ませても効果がないことになっているため、医者や祈祷師が病室に入るよりも先に、他の誰かが入ることなどありえないのです。

たとえ相手が法皇であっても、この決まりを破ることは許されません。

大修験師を先頭に十六人の祈祷師たちが部屋に入ってくると、彼らはなんと、開けられる限りの窓をすべて開け放してしまいました。

せっかく祈りを捧げても、厄鬼たちが逃げていくための道を作っておかなければ、何の意味もないというのです。

祈祷師たちは床に座り込んで大きな輪を作り、身を切るような冷たい寒風が吹き込むのも構わず、鈴や太鼓を鳴らしながら、果てしなく続く呪文を合唱し始めました。

法皇は、もうもうと立ち込める線香の煙と、氷のような冷たい夜風を吸い込み、止まることなく咳き込み続けます。

法皇に取り付いているという「羅苦叉鬼(らこしゃき)」や「鳩槃陀鬼(くはんだき)」という悪魔たちが、祈りの力に抵抗して最後のあがきをしているのだと彼らは言います。

祈祷師たちはここぞとばかりに太鼓を激しく打ち鳴らします。

そんな無慈悲な儀式が夜明けまで続きました。

ついに法皇は呼吸困難を起こし、酸素不足で気を失ってしまいました。

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