初級翻訳・新西遊記 第12話

久生 十蘭

会うための手数料として決まっていることですから。あとはあなたの話し方次第ですよ」と言われました。

門に吊るされたドラを鳴らすと、案内役の人が出てきました。
連れてきてくれた男の人が何かをささやくと、案内役の人は智海さんを連れて長い廊下を何度も曲がり、赤い模様のじゅうたんが敷き詰められた部屋へと案内してくれました。

そこには、目がくらむほど色鮮やかな毛布をかけた大きなベッドに、金色の立派な帯を締めた55、6歳くらいの、優しそうな顔をした大人が横たわっていました。その人はテーブルを近くに寄せて、阿片(あへん)を吸いながらくつろいでいました。

智海さんは入り口で3回丁寧にお辞儀をして、肩を片方だけ出すチベットの礼儀を見せながら、3歩進んで銀貨の入った袋をテーブルに置きました。そして、自分がここへ来た理由を正直に話すと、大臣は「それはお安いご用。さっそく係のものに準備をさせましょう」と言ってくれました。

大臣はとても機嫌がよく、いろいろと愛想よく話をしてくれました。そして話は、そのころ起きていた「北清事変(ほくせいじへん)」という大きな事件のことに移っていきました。中国(しん)の国で、あるグループが日本の役人やドイツの使節を殺してしまったことから、「北清事変(ほくせいじへん)」という大きな戦争が起きました。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、日本、オーストリア、イタリアの8つの国が軍隊を出し、中国の政府は西安(せいあん)という場所まで逃げ出しました。そして去年の12月、連合軍から16か条もの厳しい約束を突きつけられ、中国の大臣たちが日本とドイツへ謝罪(しゃざい)のために旅立った……大臣はそんな話をしました。

智海(ちかい)さんは、この3年間にそんな大騒動が起きていたなんて全く知りませんでした。「どうして大臣は、ぼくにこんな話をするんだろう?」と不思議に思っていると、そこへ24、5歳くらいの品のある男の人が入ってきて、「準備ができました」というようなことを言いました。
大臣はうなずいて、「この者は和堂(わどう)という。用事があったら何でも言うといい」と言い、智海さんを丁寧に部屋から送り出してくれました。

和堂さんに連れられて、巨大な法皇宮(ほうおうきゅう)の横にある石の階段をのぼり、大仏殿にある太鼓(たいこ)の楼閣(ろうかく)の前まで来ました。
お寺の境内の石畳を100メートルほど進み、どっしりとした石造りの建物の中へと入っていきます。
和堂さんは、小さな部屋がいくつも並んでいる廊下を通り抜け、突き当たりにある大きな石の扉を開けました。

暗さに目が慣れてくると、50畳(じょう)ほどもある薄暗い石の部屋が見えてきました。三方の壁にある本棚には、お経の本や巻物が、天井までぎっしりと積み上げられています。それらは黄色い包みや朱色の軸に彩られ、大昔からの静かな光を放っていました。

そこにある「一切経(いっさいきょう)」とは、仏様の教えを翻訳した「甘珠爾(カンジュル)」が1044巻、さらにその教えを詳しく説明した「丹珠爾(タンジュル)」が4058巻もあり、それぞれにタイトルや説明がついています。10巻ずつ、国の公認であることを示す黒いハンコが押された青い布に包まれて、棚いっぱいに並んでいました。

智海さんがうっとりと夢見心地でその様子を眺めていると、和堂さんが「こちらへ」と言って、隣の部屋へ連れて行ってくれました。
そこは10畳より少し狭い、窓がひとつだけある薄暗い部屋でした。壁に沿って、何千束(そく)という、とてつもない量の麻の紙が山のように積まれています。窓の下にある机の上には、筆や墨、そして青銅(せいどう)のランプが用意されていました。

「この紙は……?」と智海さんが尋ねると、和堂さんは「これは、あなたが生涯(しょうがい)をかけてお使いになる紙ですよ」と言い、お経の第1巻を机の上に置いて、部屋を出て行きました。
お経の本は、長い紙を折りたたんだ形をしていて、6万文字ほどのお経が、美しい草書体(そうしょたい)で横書きにされています。それは木の表紙に挟まれ、革のひもできっちりと巻かれていました。

全部で5102巻。1巻に平均6万文字として、合計すると「3億612万文字」という途方もない数になります。1時間に1000文字書くとして、4時間だけ寝て残りの20時間を書き続ければ、1ヶ月で60万文字、1年で720万文字。全部を書き写すには、40年以上もかかる計算です。
智海さんは今30歳。「よし、余裕を見ても72歳までには書き終わるぞ」と心に決めました。

智海さんの計算通り、最初の1044巻は8年後の明治41年、37歳の4月8日(お釈迦様の誕生日)に書き終わりました。
実はその前の年の秋から、膝(ひざ)の関節がひどく腫(は)れて痛んでいたのですが、明治41年の正月早々、足の組織が死んでしまう病気になってしまい、最初のお経を書き終えると同時に、足の切断手術を受けました。
「自分の願い通りにすべてが進んでいく、仏様の力はなんて不思議なんだろう」と智海さんは改めて驚き、「この調子なら、残りの分を書き終えるまで、絶対に死なずに生きられるはずだ」と強い決心をしました。

そして昭和15年、72歳の春。智海さんはついにすべての書き写しを完了しました。5102巻という、ものすごい数のお経です。その年の7月、ラサにある宝積院(ほうしゃくいん)というお寺で、智海さんは枯れるように静かに息を引き取りました。
日本を出るときに言った「一生をかけてお経を写す」という言葉は嘘(うそ)ではなく、そして「生きている間は、もう二度と家族や友達には会わない」という決意も、最後まで貫き通したことになります。

実は、智海さんがチベットに入ったことは、ネパールの国境を越えた瞬間に、ラサの役所へ連絡が行っていました。
その数年前に、勝手に国に入ってきた人に対する法律が変わっていたのです。入国した者は、外へ追い出すのではなく、一生、国内に閉じ込めておけ、という決まりになっていました。
ヤギから山羊、山羊からラバへと、生き物を「送り状」のように使って、智海さんの居場所をずっと見張っていたチベットの人たちの巧妙なやり方を、智海さんは知っていたのでしょうか。

しかし、智海さんが書いた『西蔵記(チベットき)』には、仏様の大きな恵みに対する感謝の言葉が古い筆致で綴られているだけで、この「秘密」については、何ひとつ触れられていないのです。

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