初級翻訳・日本の伝説 第33話

日本の伝説

奥州の外南部の松ヶ崎という海岸では、ナマコを取る網の中に小さな石がひとつ入っていたので、それを「石神(いしがみ)」と名づけて祀っておいたところ、だんだんと大きくなったということで、見上げるほど高い石神の岩が村の近くにありました。
(『真澄遊覧記』青森県下北郡脇野沢村・九艘泊)

隠岐島の東郷という村では、むかしこの浜の人が釣りをしていると、魚は釣れずに握りこぶしほどの石をひとつ釣り上げました。
あまりにも不思議なので、小さなお宮を建ててそこにおさめておいたところ、だんだんと成長して七、八年の後には、お宮の左右の板を押し破ってしまいました。
それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破ったといわれ、後にはとても立派なお宮になっていたそうです。
(『隠州視聴合記』島根県周吉郡東郷村)

阿波の伊島(いしま)という島でも、網を引いていると、まりの形をした小石が網に入って上がってきました。
それを海に捨てても、また翌日になると網に入ってきます。
そんなことが三日続いて、三日目は特に大漁だったので、その石を「蛭子大明神(ひるこだいみょうじん)」として祀りました。
それからますます土地の漁業が栄え、小石もまたほこらの中で大きくなり、五、六年たたないうちにほこらが張り裂けてしまうので、三度目にはずいぶんと大きく建て直したそうです。
(『燈下録』徳島県那賀郡伊島)

こうした例は、どうやら海岸で見つかることが多かったようです。
鹿児島湾の南の端、山川(やまかわ)の港の近くでも、むかしこのあたりの農夫がお祭りの日に潮水をくみに行きますと、その水くみの中にかわいらしい小さな石が入っていました。
三度も水をくみかえたのに、三度とも同じ石が入ってくるので、不思議に思って持って帰ったところ、それが少しずつ大きくなっていきました。
驚いた人々はお宮を建てて祀ったと伝えられており、今ではそこを「若宮八幡神社(わかみやはちまんじんじゃ)」と呼んでいます。
そうして、もともとのご神体はこの小さな石だったのです。
(『薩隅日地理纂考』鹿児島県揖宿郡山川村成川)

沖縄県などで今でも村々の古い家々が大切にしている石は、その多くが海から上がってきた石です。
別にその形や色にかわりったところがないのを見ますと、きっとその石を拾い上げたときには、何か不思議なできごとがあったのだろうと思われます。
薩摩には「石神氏」という武士の家が方々にありますが、どの家も山田という村にある石神神社を、自分たちの氏神(うじがみ)として拝んでいました。
そのお社の御神体も、白い色をした大きな御影石(みかげいし)のような石でした。
むかし、ご先祖の石神重助(いしがみじゅうすけ)という人が初めてこの国へ来るときに道で拾ったとも言われ、あるいは朝鮮出征の道中で感得(かんとく=神仏の霊感をうけること)したとも言われ、これも下総(しもうさ)の宮間氏(みやまし)の石のように、わらじのすき間に挟まって何度捨ててもまた入ってきたので、そのまま持って帰ってきたというお話がありました。
しかし今日では、持ち運ぶこともできないほどの大石になっていますから、これもやはり長い年月のあいだに成長したのだといえます。
(『三国名勝図会』ほか。鹿児島県薩摩郡永利村山田)

石に神さまのお力が現れると、昔の人は信じていました。ですから、はじめから石を神さまとして祀っていたわけではないのですが、神さまの本当の名前がわからないときには、ただ「石神さま」と呼んで拝んでいたようです。
そのため、土地によって石のあるお社の名前もいろいろと異なっています。
備後(びんご)の塩原(しおばら)の石神社などは、村の人たちは「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」なのだと思っていました。
その石などもだんだんと成長し、のちには縦も横も一丈(約3メートル)以上にもなっていました。ふだん、石神さまは道の脇によくあるもので、猿田彦(さるたひこ)さまもまた道路を守る神さまであったため、自然とそう信じられるようになったのでした。
(『芸藩通志』広島県比婆郡小奴可村塩原)

常陸(ひたち)の大和田村では、のちに山の神として祀られていました。
これは地面の中から掘り出した石だと言い伝えられています。
はじめは袂(たもと)の中に入るほどの小さな石だったものが、少しずつ大きくなっていくので、清らかな場所へ持って来て置いたところ、ますます成長していったのです。
そのため「主石大明神(おもうしいしだいみょうじん)」とお呼びしていたと伝えられています。
(『新編常陸国志』茨城県鹿島郡巴村大和田)

石にはもともと名前などないのがふつうですが、こうした出来事からだんだんと名前がつけられるようになりました。
伊勢石や熊野石が伊勢の神さまや熊野権現のお社にあるように、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もともとそれぞれの神さまを祀る人たちが大切にしていた石でした。
鎌倉石も、おそらく鎌倉の八幡さまのお力によって成長したものと考えていたのだろうと思います。
しかし、どうやってやって来たのかよく分からない石には、人々はまた「巾着石(きんちゃくいし)」や「袂石(たもとし)」といった、簡単な名前をつけておいたのでした。
羽後(うご)の仙北(せんぼく)にある旭の滝の不動堂には、年々大きくなるという五尺(約1.5メートル)ほどの岩があって、それを「おがり石」と呼んでいました。
「おがる」というのは、その地方で「大きくなる」という意味の方言なのです。
(『月之出羽路』秋田県仙北郡大川西根村)

備後(びんご)の山奥の田舎にはまた、「赤子石(あかごいし)」というものもありました。
それは昔は三尺(約90センチメートル)ほどだったのが、のちに成長して一丈四尺(約4.2メートル)にもなっていたため、そんなに大きくなってもなお「赤子石」と呼んで、もとの姿を忘れなかったのです。
(『芸藩通志』広島県比婆郡比和村古頃)

飛騨(ひだ)の瀬戸村には、「ばい岩」という大きな岩がありました。
海螺(ほらがい)という貝の形に似ているからとも言われましたが、地図には「倍岩」と書いてあります。
これもおそらく、もとあった大きさの倍にもなったというので、「倍岩」と呼び始めたのだろうと思います。
(『斐太後風土記』岐阜県益田郡中原村瀬戸)

播州(ばんしゅう)には「寸倍石(すんばいいし)」という名を持った石があちこちにあります。
たとえば加古郡の野口の「投げ石」なども、土地の人たちはまた「寸倍石」と呼んでいました。
ちょうど村の境の林の中にぽつんとひとつあって、長さが四尺(約1.2メートル)、横が三尺(約90センチメートル)、まりのような形をしていたそうですから、昔は小さかったのが少しずつ伸びて大きくなったのだと、言い伝えられていたものと思われます。
「投げ石」という名前はあちこちにありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられそうもないものばかりです。
(『播磨鑑』兵庫県加古郡野口村阪元)

たいていの袂石は、人が注意を向け始めた頃には、すでにかなり大きくなっていたようです。

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