これなどもおそらく、お互いの神さまへの信仰のかたちがよく似ていたために、かえって「浮気をして二つの神さまを信じること」を神さまに嫌われてしまったからなのだろうと考えられます。
(『都名所図会拾遺』『日次記事』)
どうして神さま同士に「仲が悪い」というようなお話ができあがり、お参りするとバチが当たると言われるようになったのでしょうか。
その本当の理由がだんだんと忘れられていくにつれて、人々は歴史上の出来事を使ってその理由を説明しようとするようになりました。
たとえば、「横山(よこやま)」という苗字の人は、茨城県の金砂山(かなさやま)に登ることができないと言われています。
それは昔、佐竹氏(さたけし)の先祖がこの山にお城を建てて立てこもったときに、武蔵の国(東京や埼玉のあたり)の横山党(よこやまとう)という武士たちが攻めてきて、お城の主が負けて落ち延びることになったからだと言われていますが、その戦いのときには、鎌倉将軍の命令を受けてお城を攻めた武士はほかにもたくさんいました。
それなのに、横山氏の一族だけがいつまでも恨まれるのはおかしな話ですから、これには何かほかの隠された原因があったはずなのです。
(『楓軒雑記』。茨城県久慈郡金砂村)
また東京では、神田明神(かんだみょうじん)のお祭りに、佐野(さの)の苗字の人が出てくると、必ず悪い災いが起こると言われていました。
なぜなら、神田明神では平将門(たいらのまさかど)の霊をおまつりしており、佐野の先祖はその平将門を攻め滅ぼした「俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)」の子孫だからだというのです。下総(しもうさ)の成田の不動さまは、俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の守り仏だったというお話がありますが、東京の近くの柏木(かしわぎ)という村の住民たちは、けっして成田へお参りに行かなかったそうでおます。
それは、柏木の氏神(うじがみ)である鎧大明神(よろいだいみょうじん)が、やはり平将門の鎧(よろい)をご神体としているという言い伝えがあったからなのでした。
(『共古日録』。東京府豊多摩郡淀橋町柏木)
信州では諏訪(すわ)の近くに「守屋(もりや)」という名字の家がたくさんありますが、この家の人たちは善光寺(ぜんこうじ)にお参りしてはいけないと言い伝えられていました。
無理にお参りをすると、災難が降りかかるなどとも言われていたのです。
それはこの家が、物部守屋連(もののべのもりやのむらじ)の子孫であり、善光寺のご本尊を難波堀江(なにわほりえ)に流し捨てた張本人だからだというのですが、これもおそらくは後の時代になってから人々が想像したことであって、守屋の一族はもともと諏訪の明神さまにお仕えしていた家柄であるゆえに、ほかの神仏を信心しなかったというだけのことだったのだろうと思います。
(『松屋筆記五十』。長野県長野市)
天神さまのお社とライバル関係にある隣り村の氏神を、藤原時平(ふじわらのときひら)を祀(まつ)る社だとしたのはおかしな間違いですが、これとよく似た例は、山々と山々の「背くらべ」のお話の中にもありました。
富士山と仲が悪い伊豆の雲見(くもみ)の山の神を、磐長媛(いわながひめ)ではないかと言う人がいると、その一方の富士山側では、その妹である木花開耶媛(このはなさくやひめ)を祀るということになりました。
どちらが先にそんなことを言い出したのかは分かりませんが、とにかくこの二人の姫神は姉妹であり、一方は美しく、もう一方は見劣りして、嫉妬(しっと)から争いが起きたと古い歴史書に書かれているため、こうした想像が生まれたのであります。
伊勢と大和の国境にある高見山(たかみやま)という高い山は、吉野川の下流の方から眺めると、多武峰(とうのみね)という山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が祀られているため、高見山の方には蘇我入鹿(そがのいるか)が祀られているのだと言われるようになりました。
入鹿をこんな山の中に祀っておくはずなどありませんが、この山に登る人たちは、多武峰の話を口にすることができなかったばかりか、鎌足のことを思い出させるという理由で、「鎌(かま)」を持って山に登ることさえも禁止されていたのです。
その言いつけを破って鎌を持っていくと、必ず大怪我をするか、あるいは山鳴りがすると言われておりました。
(『即事考』。奈良県吉野郡高見村)
この高見山のふもとを通って、伊勢の方へ越えていく峠道のわきに、二丈(約六メートル)もあるかと思われる大きな岩が一つ転がっていますが、地元の人の話では、昔この山が多武峰とケンカをして負けたとき、山の頭がスポッと飛んでここに落ちてきたのだと言われています。
そう考えてみると、蘇我入鹿を祀るようになったよりもずっと昔から、山と山との争いは存在していたのであり、その戦いに負けた方の山の頭がすっ飛んでいったという点も、羽後(うご)の飛島(とびしま)や、常陸(ひたち)の石那阪(いしなざか)の山の岩などのお話とまったく同じ系統のものだったのであります。
どうしてこんな伝説が、あちらにもこちらにも存在するのでしょうか。
その理由はまだくわしく説明することはできませんが、もしかすると、負けるには負けたけれども、それはちょうど武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が牛若丸(うしわかまる)だけに降参したようなものであり、敗者といえども決して平凡な山ではなかったのだと、当時の人たちが考えていたからこその結果だったのかもしれません。
ともかくも、山と山との背くらべは、いつでもきわどい勝負の連続だったのであります。
だからこそ人々は、二等賞になった山であっても決して軽蔑(けいべつ)はしなかったのでした。
日向(ひうなが)の飯野郷(いいのごう)という所には、高さ五尋(ひろ:約九メートル)ほどの大きな岩が野原の真ん中にドンとそびえており、人々はそれを「立石権現(たていしごんげん)」と名づけて大切に拝んでいました。
そこから遠くに見える狗留孫山(くるそんざん)のてっぺんには、卒都婆石(そとばいし)、観音石(かんのんいし)という二つの大きな岩が仲良く並んでいて、昔はその高さがまったく同じだったのですが、のちに観音石の首がポキリと折れ、神様の力によって空を飛んで、この野原までやってきて立ったのだと言います。
そのため、今では(もとの山にある方は)低くなってしまいましたが、人々はかえってその飛んできた観音石の「頭(かしら)」の方をありがたく拝んでいるのであります。
(『三国名所図会』。宮崎県西諸県郡飯野村原田)
肥後(ひご)の山鹿(やまが)では、下宮(しもみや)の彦嶽権現(ひこたけごんげん)の山と、蒲生(かもう)の不動岩(ふどういわ)とは兄弟であったと言い伝えられています。
権現さまは後妻の子(継子)だったので母は大豆ばかりを食べさせ、不動岩は実の子だったので小豆を食べさせていました。
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