初級翻訳・日本の伝説 第44話

日本の伝説

そして、その顔を白く塗ってすべて「お地蔵さま」と名づけ、お花を立てて食べ物を供え、町から来た人たちに拝ませたのでした(『山城四季物語』)。

私のいるような田舎でも、夏の夕方の地蔵祭りは、村の子どもたちにとって一番楽しい時間でした。三角の形に結んだ小豆ご飯の味は、大人になっても誰もがみんなよく覚えています。

土地によっては、寒い冬の真ん中にお地蔵さまのお祭りをしたところもあります。
伯耆国(ほうきのくに)のある村では、それを「大師講(だいしこう)」と呼び、十一月二十四日の夜が明ける前に、生(なま)の団子を持って道の分かれ道に行き、それを六地蔵の石の像にペタペタと塗りつけました。
一番早く塗り終わった子は、大きくなってから美しいお嫁さんをもらい、素敵な男性を婿(むこ)に取ることができるといわれていました。
(『霞村組合村是』。鳥取県日野郡霞村)

大阪の天王寺のお地蔵祭りは、昔は旧暦の十一月十六日でした。
この日の朝早く、子どもたちは米の粉を持ってきてお地蔵さまの顔に塗り、その夕方には今度は藁(わら)の火をたいて、真黒にいぶしました。
そうして「来年も、来年も」とはやし立てながら、お別れの踊りを踊ったということです。
(『浪華百事談』)

人によっては、これを「道碌神(どうろくじん)の祭り」とも言いました。
道碌神というのは道祖神(どうそじん:村の守り神)のことで、これも子どもたちととても仲良しの辻(道の交差点)の神様です。もともとはお地蔵さまと一つの神様でしたから、そう呼んでも決して間違いではありません。

道祖神はたいていの場所で、正月十五日にお祭りをしました。
木で作られたものであっても、やはり子どもたちは白いものを塗りました。
東京から西に見える山の中の村などでは、この日の「どんど焼き」の火の中へ、石の道祖神を入れて黒くぶすぶすと煙でいぶしました。
信州川中島(かわなかじま)の村々では、二月八日がお祭りの日ですが、この日の朝はお餅をついて、それを藁で作った馬に背負わせ、道碌神の前まで引っ張っていきます。そして、そのお餅を神さまの石像にところかまわずペタペタと塗りつけるのだそうです。
町の子どもたちも、ほんの少し前まで「影や道碌神(かげやどうろくじん)」と唱えながら、月の出た夜などに遊んでいました。東北の田舎では三十年ぐらい前まで、「地蔵遊び(じぞうあそび)」という珍しい遊びもありました。
一人の子どもに南天(なんてん)の木の枝を持たせ、親指を隠して手をギュッと握らせます。
その子をぐるりと取り囲んで、他のたくさんの子どもたちが、「かごめかごめ」のようにクルクルと回りながら、「お乗りゃあれ地蔵様」と何度も唱えていると、だんだんとその子が本当のお地蔵さまのようになっていくのです。
「物教えにござったか 地蔵さま」
「遊びにござったか 地蔵さま」

と、みんなで楽しく歌ったり踊ったりしましたが、昔は忘れ物などが見つからない時にも、この子どものお地蔵さまの言うことを聞いて、探し物を教わろうとしたりしました。
またある村では、「遊び地蔵」といって、いつもお地蔵さまの台石(だいいし)だけがあって、お地蔵さま本人はどこかへお出かけしている、という村もありました。
そういう時は、若者たちが辻の広場へお地蔵さまを持ち出して、力試しの「力石(ちからいし)」にして遊んでいるのです。
村でお嫁さんを迎えたり、お婿さんを迎えたりするお祝いの時にも、石のお地蔵さまは若者たちに担がれて、そのお家の門口まで遊びにやって来ました。
地蔵講(じぞうこう)のお地蔵さまの中には、「廻り地蔵(まわりじぞう)」といって、次から次へと仲間の家に、一月ずつお泊まりして遊んでいくものもありました。
子どもが亡くなると、悲しみにくれる親たちは、お腹掛けや頭巾(ずきん)、胸当てなどを一生懸命こしらえて、道の辻にあるお地蔵さまにお供えしました。
そのため、お地蔵さまもどこか子どものような可愛らしい姿をしていることが多いのです。
そして、お地蔵さまは子どもたちと遊ぶのが大好きで、誰かがその邪魔をすると、時々とても怒り出しました。
子どもたちがロープで引っ張ったり、道の上にゴロゴロと転がしてその上にまたがって遊んでいるのを見つけて、「そんなもったいないことをしてはいけない!」と大人が叱り、きれいに洗ってもとの台座の上に戻してあげたりすると、夢の中にその人のところへお地蔵さまがやって来て、ものすごく怒ったというお話もあります。
「せっかく小さな子どもたちと面白く遊んでいたのに、なんでお前は事情も知らないのに、引き離して連れて帰ってしまったんだ!」と、散々に叱られてしまったので、驚いた大人は慌ててもとの通りに子どもたちと遊ばせておいた……というお地蔵さまもいました。
なるほど、大人たちは何も知らなかったわけですが、遊んでいる子どもたち自身も、実は何の意味があるかなんて分かっていなかったのです。
もし今ごろになって新しくそんな遊びを始めたとしたら、お地蔵さまはきっとまた怒り出すことでしょう。でも、いつの時代から始まったのか分からないほど昔から、代々の子どもたちがそうやって一緒になって遊んできたのには、きっとそれだけの深い理由があったのでした。
遠州(えんしゅう)の国安村(くにやすむら)の石地蔵などは、村の小さなお子どもたちが小石を持ってきては、それでコンコンと叩いて穴を掘りくぼめて遊ぶので、いくら新しく造り直しても、すぐに壊れてしまいました。
ある人がそれを「もったいない」と思って子どもたちを小言で叱ったところ、その人はかえって地蔵さまのたたりを受けてしまったということです。
(『横須賀郷里雑記』。静岡県小笠郡中浜村国安)

このような、一見すると他愛のない小さな遊び方でさえも、実は硬いお地蔵さまの石像が作られるようになった時代よりも、ずっと昔からあったものなのです。
「昔」というものの中には、数え切れないほどたくさんの不思議なことが詰まっています。
それを詳しく知るためには、大人になってからしっかりと学問をしなければなりませんが、とにかく、大人がもう忘れかけてしまっているような大切なことを、子どもたちはそのわけも分からないまま、かえってよく覚えていたという場合が多かったのでした。

木曽(きそ)の須原(すはら)には、「射手の弥陀堂(いてのみだどう)」というお堂がありました。
昔は春の彼岸(ひがん)のお中日になると、この宿場の男の子たちが集まってきて、「やさいこ」と言って小さな小弓を持ち、阿弥陀(あみだ)さまの木の仏像を弓矢で射(い)て、大笑いしながら家に帰るのがお祭りだったそうです。
(『木曽古道記』。長野県西筑摩郡大桑村須原)

仏像に向かって矢を射るなんて、大変なバチあたりなことに思えますが、これにも昔、神様が目を射抜かれたというような、古い古い伝説がもとになって残っていたのかも知れません。

越後(えちご)の親不知(おやしらず)の海岸に近い青木阪(あおきざか)の「不動様」は、越後や信州、東京あたりの人たちは「お不動様」と呼んでお参りし、越中(えっちゅう)から西側の地域の人たちは「乳母様(うばさま)」と呼んで深く信仰していました。

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