初級翻訳・時計屋敷の秘密 第9話

時計屋敷の秘密

彼が持っていた懐中電灯は、いつの間にか水づかりとなって、ボタンをおしてもあかりがつかなかった。
そのくらやみの中で、八木君は足でさぐりながら、出水口の様子をしらべた。
「うむ、すごいいきおいで、水が下からわいてくる。
これはきっと、上にタンクがあって、タンクの水がながれこんでくるんだな」
 あとで分ったことであるが、これはタンクにたまった水と同じような種類であるが、じつはそれとはくらべものにならないほど多量の水をたくわえているところから、こっちへ流れこんで来たのである。
それは泉水の大きな池であった。
そうでもあろう、水のいきおいはもうれつであった。
とても水の出口をふさぐことはできないことが分った。
たとえ八木君が、自分のお尻をそこへ持っていって、出口を力いっぱいふさいだにしても、一分間ももちきれないであろう。
さすがの八木君も、すこしあわてないわけにはいかなかった。
また、ざぶざぶと水をわたって、空井戸の下へ行ってみた。
そして上へ向けて「おーイ、おーイ」とよんでみた。
だが、それを聞きつけて、井戸の上に姿を見せた者はひとりもなかった。
(おいてけぼりになって、こんなくらいところで土左衛門になるのか、いやだなあ、うん、もっと、頭をはたらかせて、逃げ出す道を探そう)
 絶望におちいりやすくなった自分の心を一所けんめい激励して、八木君は、はじめいた奥のところへもどってきた。
そこには、上からわずかながらも、あかりが照らしている。
開きそうもないが、扉がある。
また人だか鬼だか分らないが、頭の上の厚いガラスの板の上を、何者かが歩いているのを見たことがある。
八木君は、そこからなんとかして死地を脱する道を発見したいものだと考えた。
はたして、それはうまくいくであろうか。
水地獄

 八木君は、もう一度、一番奥の重い鉄扉のところへいってみた。
いろいろやってみたが、扉はびくともしない。
たたけば、こっちの手が痛くなるだけであった。
八木君は、あきらめた。
ただこのとき、彼は一つの発見をした。
扉の上に、うき彫りになって、牡牛がねそべり、そしてその牡牛はこっちを向いて、長い舌を出しているのが、とりついていることだった。
八木君は、むりをして、扉の一角に足をかけて、扉の上までのぼってみたのである。
この牡牛のうき彫りが、単なる装飾であるのか、それとも何か外に意味があるのか、そのとき八木君には答を出している余裕がなかった。
次の手は、ガラス天井を破ることであった。
ガラスはそうとう厚いようであるから、ジャック・ナイフしか持っていない彼に、はたして破れるかどうか、見込みはうすかった。
このとき水かさはまして、八木君の乳のあたりから下をひたしていた。
いやな思いである。
もう五十センチも水かさが増せば、いやでも土左衛門だ。
働くのは今のうちだ。
八木君は、ガラス天井の下で、かたわらの土壁へジャック・ナイフをたてて、土を掘りだし、足場を作りはじめた。
つまり土壁に、段をつけるのである。そしてその段をのぼって、ガラス天井へ近づこうという考えであった。
これはうまい考えであるように見えて、じつはなかなか困難なことであった。
せっかく一段を掘り、次にその上の第二段目を掘っていると、水かさがましてきて、はじめの第一段をひたしてしまう。
これは残念と、八木君はそれへ足をかけようとしたが、水がはねて段はずるずるにぬれ、八木君がそれへ上ろうとして力をいれると、とたんに足がすべって、どぶんとその身は濁水の中に落ちてしまった。
そして彼は、いやというほど泥水をのまされた。
時間は迫る。
「だんだん苦しくなるぞ、それよりか、泥水の中にすっぽりつかって、早く溺死してしまった方がどんなに楽かしれないよ。
君、早く死んだがいいよ」
 死神の声であろう。
そのことばは、早く楽になるから溺死しなさいと誘惑している。
「いやだ、死ぬまでに、まだまだやってみることがあるんだ。
お気の毒さまねえ、死神君」
 八木君は元気をふるい起して、もう一度あらためて、土の壁に段をきりこんでいった。
やがてそれはできた、彼は、こんどは失敗しないで、段の上へよじのぼることができた。
そしてガラス天井に、はじめて手をつけた。
それはひやりとして、思ったよりは、ずっと厚かった。
失望するのは、死のちょっと手前のことにして、八木君はさっそくジャック・ナイフでガラス天井をつきあげた。
きいーッと、いやな音がして、ナイフはガラスの表面をつるりとすべった。
ガラスの方がナイフより硬いのだ。
ナイフの柄の方をかえし、それを金づちがわりにして、下から、がんがんとたたいてみた。
ガラス天井は、そのままだった。
ナイフの柄についていた角材がかけた。
これもだめだ。
「まだもう一つ、やってみることがある。
ガラス天井の端まで掘ることだ。
そこまで掘れば、上にあがる穴ができるかもしれない」
 八木君は、最後の望みをこのことにかけていた。
ガラス天井が土壁にささえられている。
そこを横に掘っていくのだ。
彼は、刻々にましてくる水面をにらみながら、ジャック・ナイフの刃を水平にして、ガラス天井の下を横に深くえぐっていった。
ナイフの刃とガラスがいきおいよくぶつかって、赤い火花が見えることもあった。
そしてガラス天井の下は、だんだん奥深く掘れ、八木君のからだが横にはいれるほどになった。
八木君はそれをよろこんだ。
が、すぐ次に絶望が待っていた。
というのは、土の壁の奥が、はっしと音がして、そこにあらわれたのは巨大なる岩であった。
その岩を掘ことはできない。
最後の希望をかけて、彼はガラス天井の端を上へおしあげてみた。
だが重いガラス天井は、びくともしなかった。
「ああ、もうだめか」
 八木君ががっかりして頭をさげると、頭は濁水の中にざぶりとつかり、彼はあわてて頭をあげた。
するとごていねいに、頭をガラス天井にいやというほどぶつけてしまった。
水は、あと十センチばかりで天井につくんだ。
彼の生命もついにきわまった。
それまではりつめていた気持が、絶望と共にいっぺんにゆるんだ。
八木君は意識をうしない、からだはぐにゃりとなって水の中に沈んだ。
もう、おしまいだ。
覆面の囚人

 だが、もし他の人がいて、この場の光景をもうすこし眺めていたとしたら、その人は、意外なる出来事にぶつかって、大きなおどろきにうたれたことであろう。
八木君は、もはや死体のようになってガラス天井のすぐ下に水づかりになっている。
八木君がそうなるすこし前から、ガラス天井の上では、ひとりの人物が活躍していた。
その人物は、両足を重いくさりでつながれていた。
そしてそのくさりの一端から、また別のくさりがのびて、太い鉄の柱をがっちりとつかんでいた。
その人物は、昔西洋の僧侶が着ていたようなだぶだぶの服を着ていたが、すそは破れて、膝のすぐ下までしかなかった。
そしてやせこけて骨と皮ばかりになった足首を、鉄のくさりがじゃけんに巻いていた。
その人物は、顔にお面をかぶっていた。
頭の上から口のところまで、まっくろになった重そうなお面をかぶっていた。

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