私だったら、そんな遠慮なんてしないで、ときにはピシッと叱ってあげる代わりに、この子のためなら目に入れても痛くないくらいにかわいいんですけどね」
おばあやんは、心からしみじみと坊っちゃんの身の上を案じているようでした。
このおばあやんは、なんと七年もの間ずっと青木さんに仕えてきたのだそうです。
坊っちゃんは、青木さんが外国へ旅立たれてから四ヶ月ほど経った、そのお留守の間に生まれたのだそうで、坊っちゃんが三つになられるまでずっと海外(向こう)にいらっしゃった青木さんには、子どもが赤ん坊からそこまで育つまでの苦労というものが分かっていないのです。
そんな理由からか、青木さんはこのお子さんに対して、まるで他人の子のように少し冷たいところがある。だからこそ、まわりの人間が人一倍この子によくしてあげなければいけないのだと、おばあやんはそう語っていたのでした。おくみは、あとになってからそのあたりの事情がよく分かったけれど、とにかくこのときのばあやの話ぶりでは、奥さんはもう二度とこの家へは帰ってこない様子だった。
「ばあやさんも、今まで本当によくがんばってこられましたよねえ」
おくみは、もし自分がその立場だったらと想像して、そう言った。
「いいえ、私はこんな人間だから何の役にも立たないし、せめて毎日の生活費だけでも少しでも少なくなるようにって、自分のことみたいに倹約してがんばってきたつもりなんだけど、どういうわけかそれがかえって青木さんのお気に召さないこともあってねえ。
それに人間って女は気が小さいものだから、ちょっとしたものでも、あとでまた使うかもしれないと思って取っておいたりすると、まわりが汚いって叱られたりしてさ。
よく二人で口げんかをしたものだよ。
さっきだってお前が行ってしまったら家の中がせいせいするだろうって、渋い顔をしていらっしゃったんだからねえ」
ばあやはそう言って笑った。
「でも、気はいい人だから、『俺をかわいそうだなあ』って言って、とうとうこの年まで置いてくださったんだよ。
私も本当にいろいろと不幸な人生でねえ……」
ばあやには一人息子がいたものの、さまざまな事情があってその子の面倒を見ることができず、五十六歳のときに一人で、こちらにいた姪を頼って上京し、それからこの家に奉公にやってきたのだそうだった。
それがこの冬ごろから、息子の方をしきりに「帰ってきてくれ」と呼ぶようになり、しまいにはわざわざ人を迎えによこしたりしたのだという。
そこには少し入り組んだ事情があって、息子の顔もちゃんと立ててやらなければならないから、とうとう今度は自分も実家へ帰ることにしたのだと、ばあやはどこかぼんやりとした様子でそんな話を語った。
「おくみさんは、東京でお生まれになったんだからいいですねえ。
田舎はなにかとうるさくて、本当に嫌になりますよ」
「でも私には自分の家なんてものもないですし、いわばたった一人ぼっちみたいなものですから、ちっとも面白くなんかないわ」
おくみは自分の足のつま先に視線を集め、さっきから半分ちがうことを考えていたあとで、そう答えた。
「それでも、あなたはこれから自分の家庭ができるんだからいいじゃないですか。
お若いのにしっかりしていてよくできているんだから、きっと幸せになれますよ。
なにより、いつもきちっとなさっているしねえ」
ばあやは、おくみの髪の結い方などをなつかしそうに見つめながら言った。
二人は夜の十時前までそこに座っていた。
ばあやは小遣い帳をつけたあと、眼鏡をかけて、貸本屋から借りてきた古びた講談の本を読んだ。
おくみは行李(こうり)からレースの糸を取り出し、なんとなく、小さな肩かけ用の袋を編み始めた。
青木さんの弟さんは退屈そうに下へ降りてきて、そのへんをごそごそとさせていたが、やがて再び二階へと上がっていった。
「洗吉(せんきち)さんは恥ずかしがり屋さんだからねえ。
あなたがいらっしゃったから、なんだか照れくさいんですよ。
ふだんなら退屈するとここへ降りてきて、ゴロゴロしていらっしゃるんだけどね」
ばあやはほかにもいろいろと話をしてくれたけれど、奥さんのことについては、あれっきり何も語らなかった。
「おくみさん、旦那さまは今夜は終わりのほうの電車でなくてはお帰りになれないだろうから、もう先に休みなさいな。
今日はあなたも疲れたでしょう」
「いいえ、私はこの前の仕事ですっかり夜型に慣れちゃって、夜はいくら遅くまででも起きられるんです。
平河さんのお店では、夜中の二時ごろまでお客さまがいらっしゃることもあるんですからね」
おくみはばあやを手伝って、座敷の椅子やテーブルを端っこに寄せ、青木さんのための布団を敷いて整えた。
六
翌日の朝、おくみが四畳半の部屋でふと目を覚ますと、ばあやはすでにいつの間にか起きていて、板の間でこそつこと音を立てないようにしながら、薄暗い水場で朝の支度をしていた。
おくみは格子戸を開け、きちんと昼用の着物の帯をしめ直した。
まわりの、まだ朝の影が差しているような土の上には、すっきりと、きれいに箒(ほうき)の跡がつけられていた。
どこか裏の木の上のほうで、雀の子どもたちが、まだ目を覚ましたばかりのように少し暗い声で集まってチュンチュンと鳴いている。
いつも着て寝ていた寝間着をたたむときにも、なんだか街中とはちがう朝の空気に包まれて、自分がこれからしばらくしっとりと落ち着いて暮らす場所へやってきたんだなあという実感が湧いてくるのは、こういう、まわりの人たちのゴタゴタがない静かなお家だからなのだろうか。
おくみには、平河さんのおかみさんたちが、いつも今の時間には狭い場所に固まって眠っている姿が目に浮かんだ。
あの、テーブルや椅子がどんよりと雑然と寄せられているお店の戸を、お安さんがいつまでも眠たそうな目をこすりながら開けに行く様子なども、ふと頭に思い返された。
坊っちゃんは昨夜の茶の間に、そのままスヤスヤと眠っていらっしゃる。
あのお二人のお部屋の方は、まだ夜のように暗く戸がしっかりと閉ざされている。
「まあ、あなただってもっとゆっくり寝ていればいいのに。
私はあなたの目を覚まさせないようにって、そーっとここらの片づけをしていたつもりだったのにねえ」
無理におくみのために洗面所から水を取ってきてくれたばあやは、漆喰(しっくい)の床の上に立ち、前垂れで手を拭きながら言った。
昨夜あれから一人でじっくりと考えて、どうあっても今日の午後の汽車で出発することに決めたのだそうだった。「私はそれまでに、どうしても一軒だけ、お別れを言いに行っておきたいところがあるものですから、手際よく少し早めに起きたんですよ」
「それじゃあ、すごく慌ただしいですねえ。私にできることなら何でも手伝いますから、あなたは落ち着いて、ゆっくりとお出かけの支度をなさってくださいね」
「私は支度なんていっても、ただもう着物を着替えさえすれば、いつでもすぐに出かけられるようにしてあるんですから――おや、うっかりしていました。ちょっと待っていらっしゃい。
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