初級翻訳・桑の木物語 第10話

山本 周五郎

そして参勤出府(さんきんしゅふ)の式――国元での特産品である献上物を持って将軍に謁見(えっけん)すること――が済むとすぐ、正篤は軽い風邪をひいて床に伏せた。
旅の疲れも出たのだろう、長くて四、五日もすれば治ると思われたが、そのまま五十日ほども病室から出ることができなかった。
悠二郎はほとんどつきっきりで看病をした。
もちろん看病や宿直(当直)はほかにもいたが、彼と新泉(しんせん)と原の三人はいつも正篤のそばを離れず、ことに悠二郎はその期間ずっと自分の家へ帰らなかった。
――新泉や原は五日に一度ずつ家へ帰っていたし、夜も正篤に言われれば自分の部屋へ下がって眠った。
しかし悠二郎だけはそういう場合でも、宿直室より遠くへは決して下がろうとしなかった。
……正篤も、しつこく「下がれ」とは言わなかった。
二人きりになれば舟仙を中心にした話ができる。そのときだけは気が紛れるらしく、声をだして笑うことさえしばしばあった。
「あの話には驚いたなあ、とうてい本当とは思えなかったよ」
 あるとき正篤は、ふと思い出したというふうにこう言い、笑いながらこちらを見た。
どうも顔の一点をじろじろ見つめながら笑うので、悠二郎はいつものように照れくさくなり、何の話ですかと聞き返した。
正篤は自分の鼻を指さした。
「お前の鼻の穴がどうしてそんなに大きくなったかという話さ。おつねからすっかり聞いたんだよ」
「えっ、あっ――ああ、そればかりは」
「そればかりだって、本当なんだろう」
「覚えがないんです!」悠二郎は顔を真っ赤にし、むきになって弁明した、「――ぜったいにありません、自分ではこれっぽっちも覚えのないことなんです。
これだけは誰にも話さない約束だったんですが……ひどいやつだなあ」
 正篤は笑って、そして激しく咳き込んだ。
だが、こういう会話はだんだん少なくなっていき、正篤の様子は日の経つにつれて憂鬱(ゆううつ)な色を濃くしていった。
悠二郎の話を聞いて笑っても、それが心からの笑いではないことがよくわかった。
沈んだ顔をして、すぐに黙りこみ、ぼんやりとどこかを眺めるというふうなことが多くなったのだ。
――病気が悪くなったのかと心配されたが、お医者さんはむしろ回復に向かっていると言っていた。
そのうち悠二郎はふと、正篤が国元にいる頃から何度もそんな様子を見せていたことを思い出し、そこに何か理由があって、それが現在まで尾を引いているのではないかと、想像してみたりした。
日が暮れかけてから雨になったある夜のこと、ちょうどまた二人きりになったとき、とりとめのない会話がふと途切れ、どちらもしばらくの間、しんしんと軒(のき)を打つ雨の音に耳を澄ませていた。
そしてかなり時間が経ってから、正篤は枕の上で仰向けになったまま、喉にからんだような声でこう言った。
「悠二郎、お前は浅草へはいつ行くんだ」
 それはもう何度も尋ねられている質問だった。
悠二郎はさりげなく、いつものように答えた。「もうすっかり良くなっていますから、ご一緒にお供をします。ひとりで出かけても楽しくありませんから」
「そうじゃないだろう。浅草にも行きたいけれど、おれのそばを離れたくないんだろう」
正篤の声は、なんだかトゲのある響きに変わった。
「――おまえは知っているんだな。だから、おれがいつ死んでしまうか分からないと思っているんだろう」
「何をそんな……!」
悠二郎はドキッとして、あわてて話を遮ろうとしましたが、正篤は冷笑するように言葉を続けた。
「隠さなくていい、おれだって知っているんだ。大竜寺へお墓参りに行ったとき、お寺の記録を見てすべて分かったんだよ。
五代前の先祖から、我が家の男たちはみんな若い年齢で死んでいる。父上も、おじいさまも、ひいおじいさまも、みんな二十歳から二十二、三歳で亡くなっているじゃないか。
――おれに早く奥さんを迎えさせて、すぐに跡継ぎを作らせようとあんなに急がせたのも、母上や家来たちが、おれが短命だと知っていたからなんだ。そうだろう、悠二郎」

悠二郎は何も言えませんでした。
両手で自分の袴(はかま)の生地をぎゅっとつかみ、うつむいたまま、こみ上げてくる涙を必死にこらえていました。
「みんなにとっては、おれの命そのものよりも、跡継ぎがいるかどうかのほうが大事なんだ。
――たとえそのせいで、おれ命が縮まることになったとしても、子どもを作ることができるなら、そのほうがみんなのためには良い……。そうなんだろう、悠二郎」

七

悠二郎はそこにしっかりと手をつきました。
そして、できるだけ落ち着いた、静かな声で言いました。
「私は、殿が若くして亡くなられるとは思いません。ご先祖さまたちが短命だったからといって、殿も短命であると決まったわけではありません。私は、殿が長生きされると信じております」
「おまえが信じただけで、おれの寿命が延びるとでもいうのか」
「私はいつだったか、祖父からこんな話を聞きました」
悠二郎はかまわず続けました。
「――人間は、ただ生きた年数の長さだけで、長命か短命かが決まるものではないそうです。
たとえば、大きな土蔵の中で百年生きるのと、にぎやかな街の中で三十年生きるのとでは、その間に経験した中身を比べれば、街で三十年しか生きられなかったとしても、事実としてはるかに長く、濃く生きたと言えるのではないでしょうか」

正篤は目を閉じ、息をひそめるようにじっと聞き入っていました。
悠二郎は声を少し強めて話し続けました。
「私は、祖父が言っていたその言葉の意味が、当時はよくわかりませんでした。
ですが、まもなくして深く納得できたのです。
殿のお立場でありながら、殿はこれまでにも、普通では考えられないような数々の素晴らしいご経験をなさってきました。
――庶民と同じような格好をして、浅草の見世物をご覧になり、大川へ舟を出して、自由に泳いだり釣りを楽しんだりもなさった。
向島から小梅のあたりにいる腕白な子どもたちといっしょになって、遊びまわったり喧嘩をしたり……。
ほかの方々――お城や御殿の中だけで大切に育てられた方々には、到底見聞きすることもできないような経験を、殿はたくさんなさっているのです。
そうではございませんか」

悠二郎は、自分の言いたいことをうまく言葉にできないもどかしさにあせり、肩を大きく揺らし、せわしなく膝をなでながら、何度も言葉を詰まらせました。
「人間の寿命というのは、生まれ持ったものだと言います。
仮に、もし殿の寿命が二十三歳までだとしても、それまでの間にできるだけ広く、たくさんの経験を積み、心から満たされた、悔いのない生活を送ることができたなら、なにもせずにただぼんやりと百年生きるよりも、はるかに『本当に生き抜いた』と言えるのではないでしょうか」

正篤はいつの間にか目を開け、薄暗い天井の一点をじっと見つめていました。
夜が更けきった静けさの中、屋根の庇(ひさし)を打つ雨の音が、さむざむと静かに響いていました。
――悠二郎は、もう言葉を選んでいる暇もなく、心の底からわき起こる思いのままに言葉を紡ぎ出しました。
「もしも殿に万が一のことがあれば、そのときは、この悠二郎もお供をいたします。

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