ポケットのダイヤ
陽子(ようこ)は珍しく早起きをして、朝のお化粧もすませると、ベランダの籐椅子(とういす)に長々と両足を伸ばし、ココアを飲みながら、何度も腕時計を眺めていた。
客間の置時計が九時を打つと、それを合図にしたように玄関のベルが鳴り、貴金属商の杉村(すぎむら)がやってきたと書生が知らせてきた。
貴金属商というのは表向きで、実はこっそりと婦人たちの間を渡り歩いている、宝石のレンタル業を営んでいる男だった。
指輪や時計の交換なども引き受けてくれるため、とても重宝がられているのだった。
彼は人なつっこい調子でお世辞を振りまきながら、女中が茶菓子を運んで出入りする間は、ゆっくりと鞄から一つ一つ指輪を取り出してテーブルの上に並べていたが、女中の姿が見えなくなると、懐からこっそりと別の箱を取り出し、言った。
「パリで買われたものだそうなんですが――、カットも新しいし、これほどの極上品はめったにございません。
――いかがでしょう? 二千五百円ならお安いと思いますが――」
それは三カラット以上もありそうな、純白のダイヤモンドが輝く指輪だった。
陽子はロウ細工のような細い指にはめてみて、じっと眺めた。
欲しいな、と思った。すごく欲しい! しかし、この指輪と交換できるだけの宝石を、残念ながら彼女は持ち合わせていなかった。
もしどうしてもこれが欲しいと言うなら、まとまったそれなりの現金を差額として支払わなければならないだろう。
結婚してからまだ半年しか経っていない二十一歳の若い若夫人にとって、それだけの現金を用意するのは少し難しいことだった。
欲しくて欲しくてたまらないけれど、今回は我慢するしかなかった。その代わりとして、小指にはめるマルキーズ型の指輪を借りることにして、手持ちのルビーの指輪にいくらかの現金を添えて話をまとめた。
杉村は鞄の中に指輪をしまいながら言った。
「アメリカ観光団の大舞踏会があるそうですね。
奥様もご出席なさるんでしょうか?」
「ええ、招待状が届いているから、行くつもりよ」
キャンディ
「そのために――、皆さま、大変ご苦労なさっていらっしゃるようです。
これはここだけの話ですが――、うちの上等な品は、そのほとんどが当日のために貸し出されてしまいましたよ」
陽子は杉村が帰った後も、あの三カラットのダイヤが目の前から離れなかった。
梅田子爵夫人ともあろうものが、あれくらいのダイヤ一つ持っていないなんて情けない。何とかして買いたいものだと思いながら、ぼんやりと庭を眺めていると、縁側に慌ただしい足音が響き、実家の次兄である平松春樹(ひらまつ はるき)が訪ねてきた。
「あら、お兄様」
兄の顔を見ると急に甘えたような気持ちになり、わけもなく涙ぐみそうになった。
(ダイヤが欲しいのよ)と、言葉が喉まで出かかったのをぐっとこらえ、陽子は唇を噛みしめた。
それは口にしてはならないことだった。自分がこれほど欲しがっていると知ったら、この妹思いの春樹が、黙って見ているはずがない。
どんなに無理をしてでも、きっとダイヤを手に入れて持ってきてくれるに違いない。でも、その「無理」をさせるのが――彼女には恐ろしかったのだ。
「お兄様も舞踏会にいらっしゃるんでしょう? 西洋の婦人たちがたくさん来るそうだから、さぞ華やかでしょうね」と彼女は話題を変えた。
「アメリカ人が半数以上を占めるって話だから、会場じゅうダイヤが踊っているようなもんらしいぜ。
お前なんかも、中途半端な宝石をつけて行かない方がいいぞ。
ショボい指輪をつけて行ったりしたら、かえって見すぼらしくなっちまうからな」
兄の言葉などまるで耳に入らない様子で、陽子はじっと考え込んでいたが、何かを思いついたのか、急に元気を取り戻して立ち上がった。
「どうせ買えないからと思って諦めかけたけれど――お兄様、私、これから三越(みつこし)に行ってくるわ。
あさこは月末払いだから――その時はその時で、どうにかなるわよ。
ほんとに、いい方法を思いついたわ。
三越に行って――ダイヤを見てくるの。
決めたわ!」
「バカなこと言うな! やめろって言ったら――そんな小粒のダイヤじゃみっともないぞ――」
「だから――もっと大きいのを買うのよ!」
陽子は勢いよく化粧室に飛び込むと、パフで顔を軽く叩き、コートに腕を通しながら、浮き浮きとした足取りで戻ってきた。
春樹は苦笑しながらタバコに火をつけ、「じゃあ、俺も一緒に外に出るとするか」と言った。
二人は連れ立って家を出た。
三越の前で陽子は兄と別れ、軽い足取りでエレベーターに乗り込んだ。
彼女の頭の中は、もうダイヤのことでいっぱいだった。
エレベーターを降りるとわき目も振らず、まっすぐに貴金属売り場へと向かった。
ショーウィンドウを覗き込むと、パッと目に飛び込んでくる大きなダイヤがあった。
たくさんの指輪に取り囲まれたその真ん中で、それはまるで女王のように眩しく輝いていた。
杉村が持っていたものなんかとは比べ物にならないほど、ずっと立派なものだった。
陽子はさっそく顔なじみの店員を呼び寄せ、ガラスケースの表面を指先でトントンと軽く叩きながら言った。
「ねえ、この指輪、ちょっと見せてくださらない?」店員は五千八百円という値段の札をぶらりと下げているその指輪を陽子に渡し、さらにほかにも気に入りそうなものを五、六個並べて見せてくれた。彼女はそれを一つ一つ指にはめては見とれていたが、やっぱり最初に目についた五千八百円のものが一番気に入った。
欲しいなあ、と思うと思わず溜息が出る。
お金をどうしよう?――支払いの時、もし出来なかったら――と思うと、目の前が真っ暗になる。
だが――どうにかなるだろう、構わない、買っちまえ! 彼女は顔をぽっと赤らめ、じっとダイヤを見つめているうちに、なんだか頭がボーッとした。
ふと我に返るとハッとして、また考えた。
そんな無茶なことをしてどうする? 到底そんな大金ができるはずがないのに――無謀な考えを起こしたら、それこそ月末は大変だ。やっぱり――諦めるより仕方がない。
彼女は名残惜しそうに指輪をぬいて箱にしまい、力なく返そうとしたが、そばにいた店員の姿が、どうしたのか見えなかった。
あたりを見回すと、自分の側に、同じように指輪に見入っている婦人がいた。
ちらっと見た時は外国人かしらと思ったほど、洋服がしっくりとよく似合っていて、帽子から靴まで薄墨(うすずみ)色で統一されていた。
背が高くてスマートな、すてきな姿だ。
と、陽子はしみじみ眺めた。
あまりジロジロ見たせいか、その婦人はすうっと向こうへ行ってしまった。
そこへ店員が戻ってきたので、指輪を渡し、
「また出直してきますわ。
気に入ったのが――あることはあるんだけれど――」と言って、しょんぼりと三越を出た。
銀座を歩いているうちに夕方になったので、タクシーを拾って家に帰ったが、コートを脱ぐのもめんどくさいくらいがっかりした。
考えれば考えるほど、気がめいる。
コメント